足利義晴 (あしかがよしはる)
1511〜1550
【概説】
室町幕府の第12代征夷大将軍。11代将軍足利義澄の長男として生まれ、管領細川高国に擁立されたが、細川氏や三好氏らによる畿内の激しい権力闘争に巻き込まれて近江国への逃亡を繰り返した。
細川高国による擁立と将軍就任
足利義晴は、11代将軍足利義澄の嫡男として生まれた。当時、幕府中央では守護大名の細川氏による内紛(両細川の乱)が続いており、将軍家もこれに巻き込まれて分裂していた。大永元(1521)年、当時の10代将軍足利義稙が管領の細川高国と対立して京都を出奔すると、高国は新たな擁立候補として播磨国に逃れていた義晴(当時は万寿丸)を京都に迎え、わずか11歳で第12代将軍に就任させた。しかし、この将軍就任は細川高国が自らの政権を正当化するための傀儡(かいらい)としての性格が極めて強いものであった。
近江逃亡の常態化と安土桃山時代への予兆
将軍就任後も畿内の情勢は安定せず、細川晴元や三好元長らの攻勢によって高国が没落すると、義晴は京都を追われ、近江国の坂本や朽木への逃亡を余儀なくされた。この逃亡(動座)は義晴の生涯で何度も繰り返され、将軍が京都を離れて近江に留まりながら政務を行うという変則的な状況が常態化した。義晴は近江守護の六角定頼らの軍事的・経済的支援に深く依存せねばならず、将軍権力の形骸化が急速に進行した。この、足利将軍が有力な地域権力を頼って京都への復帰を図る政治構造は、のちに織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、安土桃山時代の天下統一へとつながる政治的ダイナミズムの先駆的な事例となった。義晴は天文15(1546)年に将軍職を長男の足利義輝に譲り、その4年後に近江坂本で病没した。