朝倉氏
【概説】
室町時代から戦国時代にかけて、越前国(現在の福井県嶺北地方)を支配した戦国大名。斯波氏の被官から下剋上によって実権を握り、一乗谷を本拠地として独自の分国法『朝倉敏景十七箇条』を制定した。長らく越前に繁栄をもたらしたが、のちに台頭した織田信長と対立し、滅ぼされた。
守護代クラスから戦国大名への飛躍
朝倉氏の出自は但馬国(現在の兵庫県北部)とされ、鎌倉時代に越前国へ入部したと伝わる。室町時代に入ると越前守護であった斯波氏の被官となり、甲斐氏や織田氏とともに守護代に次ぐ有力な国人領主として勢力を伸ばした。朝倉氏が戦国大名として飛躍する決定的な契機となったのが、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱である。
当時の当主・朝倉孝景(敏景・英林)は当初西軍に属して強力な軍事力を誇っていたが、東軍の細川勝元から越前守護職を条件に寝返りを打診され、これを受諾した。孝景は越前に下向して同族や守護代の甲斐氏らを次々と平定し、主君である斯波氏をも追放して、実質的な越前国の支配権を確立した。これは典型的な下剋上の事例として日本史上で高く評価されている。
一乗谷の繁栄と分国法『朝倉敏景十七箇条』
孝景は越前平定の過程で、防備に優れ水運の便も良い一乗谷(現在の福井市)に本拠を移した。以後、氏景、貞景、孝景(宗滴の甥)、義景の5代にわたって一乗谷は朝倉氏の城下町として繁栄を極めた。応仁の乱で荒廃した京都から多くの公家や文化人が避難してきたため、一乗谷は「北陸の小京都」と呼ばれるほど高度な文化が花開いた。
また、初代孝景の遺訓とされる分国法『朝倉敏景十七箇条(朝倉孝景条々)』は、朝倉氏の領国支配の根幹を成すものであった。この法令では、家臣を城下に集住させること、能力本位で人材を登用すること、名馬や名刀に執着せず実戦的な武具を揃えることなどが規定されており、戦国大名としての極めて合理的な統治思想が如実に表れている。この体制は、名将・朝倉宗滴などの優秀な一門衆の活躍によって強固なものとなり、朝倉氏は加賀国や若狭国など周辺諸国へも強い軍事的影響力を及ぼすようになった。
室町幕府との結びつきと足利義昭の保護
朝倉氏は越前一国の支配を盤石なものとする一方で、室町幕府の権威を巧みに利用した。歴代当主は幕府の相伴衆に列せられるなど、京都の足利将軍家と深い関係を築いていた。永禄8年(1565年)に第13代将軍足利義輝が暗殺されると(永禄の変)、その弟である足利義昭は逃亡の末に越前の第5代当主・朝倉義景を頼り、一乗谷に身を寄せた。
義景は義昭を保護して手厚くもてなしたが、加賀の一向一揆への対応や家中問題もあり、義昭が望む上洛戦の軍を起こすことには消極的であった。結果として義昭は朝倉氏を見限り、美濃国を平定して日の出の勢いにあった織田信長を頼って上洛を果たすこととなる。
織田信長との対立と朝倉氏の滅亡
足利義昭を擁立して実権を握った織田信長は、諸大名に上洛を命じたが、朝倉義景は名門の自負からこれを再三にわたり拒否した。これにより信長との関係は決定的に悪化し、元亀元年(1570年)、信長は越前へ侵攻を開始する。この時、信長の同盟者であり、朝倉氏とも長年の同盟関係にあった北近江の浅井長政が朝倉方についたため、信長は挟撃の危機に陥り、命からがら京都へ逃れた(金ヶ崎の退き口)。
その後、朝倉・浅井連合軍は姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗北を喫したものの、比叡山延暦寺や石山本願寺などと結んで信長を包囲し(信長包囲網)、激しい抗争を繰り広げた。しかし、武田信玄の病死などによって包囲網が崩壊すると、天正元年(1573年)、信長はついに大軍を率いて越前へ本格侵攻した。朝倉軍は刀根坂の戦いで壊滅的な打撃を受け、華やかな文化を誇った一乗谷は焼き討ちに遭って灰燼に帰した。当主の義景は逃亡先で同族・朝倉景鏡の裏切りに遭い自刃し、およそ100年間にわたって越前を支配した戦国大名・朝倉氏はここに滅亡したのである。