龍造寺氏 (りゅうぞうじし)
【概説】
肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の国人領主から下剋上によって戦国大名へと成長を遂げた一族。16世紀後半、当主の龍造寺隆信の時代に全盛期を迎え、豊後の大友氏、薩摩の島津氏と並んで「九州三強」の一角を占めた。しかし、島津氏との決戦に敗れた後は急速に衰退し、実権は重臣の鍋島氏へと移行することとなった。
国人から戦国大名への台頭と少弐氏への「下剋上」
龍造寺氏は、鎌倉時代に肥前国佐嘉郡(現在の佐賀市周辺)の地頭として土着した一族とされる。室町時代から戦国時代初期にかけては、肥前の守護代であった少弐氏の有力な被官(家臣)として活動していた。
龍造寺氏が大きく歴史の表舞台に登場するのは、16世紀半ばの龍造寺家兼(みずがえりゅうぞうじけ)の時代である。家兼は衰退する主家・少弐氏を支えつつ実力を蓄えたが、その台頭を恐れた他の家臣によって一時は一族の多くが誅殺される憂き目に遭う。しかし、家兼は挙兵して仇敵を討ち、龍造寺氏の復権を果たした。その後、家兼の曾孫にあたる龍造寺隆信が本家を相続すると、周辺の競合する国人領主を次々と武力で圧倒し、1559年にはかつての主君である少弐氏を滅ぼした。これによって、龍造寺氏は名実ともに肥前の支配権を握る戦国大名へと脱皮したのである。
「肥前の熊」龍造寺隆信と九州三強への道
戦国大名となった龍造寺隆信は、苛烈なまでの権力集中と領土拡大を進めた。その勇猛さと冷徹さから、隆信は「肥前の熊」の異名で恐れられた。当時の九州は、北九州を支配する豊後の大友宗麟(義鎮)が強大な勢力を誇っており、肥前に進出する大友氏との衝突は避けられなかった。
1570年、大友氏が大軍を率いて龍造寺氏の拠点である佐嘉城を包囲した際、隆信の義弟で軍師格の重臣・鍋島直茂(信生)が夜襲(今山の戦い)を敢行し、大友軍の大将である大友親貞を討ち取って奇跡的な勝利を収めた。この一戦によって龍造寺氏は大友氏と対等な和睦を結び、その威名を九州全土に轟かせることとなった。その後、大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗して衰退すると、隆信は筑後、肥後、豊前、筑前へと一気に勢力を伸ばし、「五州二島(肥前・肥後・筑前・筑後・豊前と対馬・壱岐)」の太守と称される九州最大級の勢力を築き上げた。
沖田畷の戦いと大名としての終焉
急激な領国拡大は、服属させた地域国人衆との間に火種を残すこととなった。とりわけ南肥前の有馬晴信は、急速に南九州から北上する薩摩の島津氏と結び、龍造寺氏に反旗を翻した。これに対し、1584年に龍造寺隆信は自ら大軍を率いて島原半島へ出陣した。
しかし、沖田畷(おきたなわて)の戦いにおいて、数で勝る龍造寺軍は、島津・有馬連合軍の得意とする「釣り野伏せ」と呼ばれる囮戦術に嵌まり、狭隘な泥湿地帯で大混乱に陥った。この乱戦の中で総大将である龍造寺隆信が討死し、さらに多くの有力一門や重臣を失うという壊滅的な打撃を被った。隆信の死後、跡を継いだ政家は暗愚であり、島津氏の圧力や豊臣秀吉の九州平定(1587年)という激動の渦中で主導権を発揮できなかった。そのため、危機を脱するために国政の実権は一族の宿老であった鍋島直茂に委ねられることとなった。のちに直茂・勝茂親子が秀吉や徳川家康から肥前一国の支配権を事実上認められ、江戸時代初期に龍造寺本家が断絶すると、鍋島氏が正式に佐賀藩主となり、龍造寺氏としての戦国大名歴史はその幕を閉じた。