井伊直弼 (いいなおすけ)
【概説】
幕末期の彦根藩主であり、江戸幕府の最高権力者である大老。将軍継嗣問題の解決や日米修好通商条約の無勅許調印を強行し、反対派を安政の大獄で徹底的に弾圧した。しかし、反発を強めた水戸浪士らにより桜田門外の変で暗殺され、幕府権威の失墜を決定づけた。
部屋住みからの飛躍と幕政への登場
井伊直弼は1815(文化12)年、近江彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれた。家督を継ぐ見込みが薄かったため、長きにわたり「部屋住み」の身分として過ごし、自らの居室を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けて国学、和歌、茶道、禅などの学問・教養を深めた。しかし、兄たちの死去や病弱が重なり、1850(嘉永3)年に第15代彦根藩主へ就任することとなる。折りしもペリー来航による幕末の動乱が始まろうとする時期であり、譜代大名筆頭である井伊家の当主として、直弼は国難に直面する幕政の表舞台へ引き出された。直弼は開国論を主張し、幕府の権威回復と旧来の専制体制の維持を目指して活動を始めた。
大老就任と将軍継嗣問題の決着
ペリー来航後、13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がいなかったため、次期将軍を巡る将軍継嗣問題が浮上した。血統を重視し、紀州藩主の徳川慶福(後の家茂)を推す直弼ら南紀派と、難局を乗り切るために英明な年長者である一橋慶喜を推す島津斉彬や松平慶永(春嶽)ら一橋派が激しく対立した。1858(安政5)年、一橋派の大名や朝廷の動きを警戒した直弼は、譜代大名らの推挙により幕府の臨時最高職である大老に就任した。直弼は就任直後、将軍継嗣を徳川慶福に決定して一橋派を退け、幕府の主導権を握る強硬な姿勢を示した。
日米修好通商条約の無勅許調印
直弼の大老就任時、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスから強く求められていた日米修好通商条約の調印も急務となっていた。前老中首座の堀田正睦は、朝廷から条約調印の勅許(天皇の許可)を得て国内世論をまとめようとしたが、極端な攘夷思想を持つ孝明天皇はこれを拒否していた。直弼自身は当初、天皇の許可を待つべきだとの考えを持っていたとされるが、ハリスからの強烈な圧力や、清国がアロー戦争で英仏に敗北したという国際情勢の切迫を受け、幕府の責任において1858(安政5)年6月に無勅許での調印に踏み切った。この独断専行は、朝廷の意思を無視したものとして、尊王攘夷派や一橋派の激しい怒りを買うこととなった。
安政の大獄と桜田門外の変
直弼の専横に対し、水戸藩をはじめとする反対派は朝廷工作を活発化させ、孝明天皇から幕政改革を促す「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」が幕府を介さず水戸藩に直接下賜されるという前代未聞の事態が起きた。これに激怒した直弼は、幕府の絶対的な威信を保つため、反対勢力の徹底的な弾圧に乗り出した。これが安政の大獄である。一橋派の大名(徳川斉昭、松平慶永ら)に隠居や謹慎を命じたのみならず、幕政批判を展開した吉田松陰や橋本左内といった有能な志士、さらには公家やその家臣たちを次々と捕らえ、死罪を含む厳罰に処した。
しかし、この苛烈な恐怖政治は、反幕府感情を抑え込むどころか極限まで高める結果となった。1860(安政7)年3月3日、雪の降るなか江戸城へ登城途中であった直弼の行列は、水戸脱藩浪士や薩摩浪士らによって襲撃され、直弼は白昼の江戸城外で命を落とした(桜田門外の変)。最高権力者である大老が暗殺されるというこの前代未聞の事件は、江戸幕府の権威がもはや地に堕ちたことを全国に知らしめ、その後の尊王攘夷運動や討幕運動を決定的に激化させる歴史の大きな転換点となった。