堀田正睦 (ほったまさよし)
【概説】
幕末期の譜代大名、下総佐倉藩主および江戸幕府の老中首座。アメリカ総領事ハリスとの日米修好通商条約締結を推進したが、孝明天皇からの勅許獲得に失敗し、井伊直弼との政争にも敗れて失脚した。
開明的な佐倉藩主と老中への抜擢
堀田正睦は、下総国佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の藩主である。若くして蘭学に強い関心を示し、蘭医の佐藤泰然を招いて蘭学塾「順天堂」を開かせるなど、西洋の学問や技術を積極的に取り入れた開明的な大名(いわゆる「蘭癖大名」)として知られていた。幕政においては天保期にも一度老中を務めたが水野忠邦と対立して辞任。しかし、ペリー来航以後の未曾有の国難において、老中首座・阿部正弘にその開明的な外交感覚を買われ、安政2年(1855年)に再び老中として幕政に復帰した。
日米修好通商条約の交渉
安政4年(1857年)に阿部正弘が病死すると、正睦は老中首座を引き継ぎ、幕府の外交責任者となった。当時、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に滞在し、通商条約の締結を強く迫っていた。西洋列強のアジア進出(アロー戦争など)の脅威を正確に認識していた正睦は、鎖国体制の維持は不可能であり、自主的な開国と貿易の振興こそが富国強兵に繋がると判断した。彼はハリスを江戸城に登城させて将軍徳川家定への謁見を実現させ、日米修好通商条約の締結に向けた詳細な条約案をまとめ上げた。
朝廷工作の失敗と条約勅許問題
条約案はまとまったものの、国内では尊王攘夷論が沸騰しており、幕府独断での調印は強い反発を招くことが予想された。そこで正睦は、京都の孝明天皇から条約締結の勅許(天皇の許可)を得ることで、反対派を沈黙させようと画策した。安政5年(1858年)、正睦は自ら上京して朝廷への工作を行ったが、極端な攘夷論者であった孝明天皇の意思は固く、さらに公家たちが猛反発して抗議活動を行う「廷臣八十八卿列参事件」も勃発した。結果として朝廷は幕府の要請を拒絶し、正睦の目論見は完全に挫折した。この出来事は、それまで政治の蚊帳の外にあった朝廷が、幕政を左右する政治的権威として台頭する決定的な転換点となった。
将軍継嗣問題と失脚
勅許獲得に失敗して江戸に戻った正睦は、もう一つの大きな政治課題である将軍継嗣問題に直面した。病弱な13代将軍・家定の跡継ぎを巡り、正睦は国難を乗り切るための英明な年長者を求め、一橋慶喜を推す一橋派に与した。しかし、徳川慶福(家茂)を推す南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、形勢は一変する。井伊は無勅許での条約調印を断行するとともに、将軍継嗣を慶福に決定した。政策と政争の両面で敗北した正睦は、安政5年(1858年)に老中を罷免され、失脚を余儀なくされた。
歴史的意義
堀田正睦は、幕末という激動の時代において国際情勢を的確に把握し、現実的な開国路線を主導した優秀な政治家であった。しかし、朝廷の権威を利用して国内世論を統制しようとした彼の手法は、結果的に幕府の権威を相対的に低下させ、朝廷の政治的浮上を招くという皮肉な結果をもたらした。彼の失脚とそれに続く井伊直弼の強権的な政治は、後の安政の大獄や桜田門外の変へと連なり、江戸幕府崩壊への流れを決定的に加速させることとなったのである。