徳川慶福(家茂) (とくがわよしとみ/いえもち)
【概説】
江戸幕府第14代将軍(在職1858〜1866年)。紀伊藩主時代は慶福(よしとみ)と名乗り、将軍継嗣問題において井伊直弼ら南紀派に擁立されて将軍の座に就き、家茂と改名した。公武合体策による和宮降嫁や、将軍として229年ぶりの上洛など幕末の激動期を象徴する出来事を経験したが、第2次長州征討の途上に大坂城で病死した。
紀州藩主としての出自と将軍継嗣問題
徳川慶福(のちの家茂)は、弘化3年(1846)、紀伊藩第11代藩主・徳川斉順の長男として生まれた。祖父は第11代将軍・徳川家斉であり、将軍家に極めて近い血統を有していた。嘉永2年(1849)にわずか4歳で紀伊藩主を継ぐが、その運命を大きく変えたのが、第13代将軍・徳川家定の継嗣問題であった。
病弱で実子のいない家定の後継者を巡り、幕府内は二つの派閥に分裂した。一方は、ペリー来航などの国難に対処するため英明な年長者を求める阿部正弘、島津斉彬、松平慶永らが推す一橋慶喜(一橋派)であり、もう一方は、将軍家の血統を重んじ、現将軍・家定の従弟にあたる若年の慶福を推す譜代大名や大奥を中心とした南紀派であった。
南紀派の勝利と14代将軍「家茂」の誕生
安政5年(1858)、南紀派の中心人物である彦根藩主・井伊直弼が大老に就任すると、事態は一気に決着に向かった。井伊は独断で日米修好通商条約に調印すると同時に、次期将軍を慶福に決定した。これに反発した一橋派の大名や志士たちは安政の大獄によって激しく弾圧されることとなる。
同年、家定が没すると慶福は13歳で第14代将軍に就任し、名を家茂(いえもち)と改めた。しかし、幕政の実権は井伊直弼が握っており、家茂自身は若年ゆえに政治的主導権を発揮できる状況にはなかった。
公武合体政策と和宮降嫁
安政7年(1860)に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は大きく失墜した。この危機を乗り越えるため、老中・安藤信正らは朝廷の権威を借りて幕府の立て直しを図る公武合体政策を推進した。その中核となったのが、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)と将軍家茂の政略結婚である。
文久2年(1862)、和宮は江戸へ降嫁し、家茂の正室となった。この結婚は純然たる政治的思惑から発したものであり、公家社会と武家社会の習慣の違いから当初は軋轢もあった。しかし、家茂は心優しく誠実な人柄であったとされ、次第に和宮の信頼を得て、夫婦仲は非常に良好であったと伝えられている。
異例の上洛と幕府権威の動揺
和宮降嫁によって朝廷との結びつきを強めた幕府であったが、尊王攘夷運動の激化を抑え込むことはできなかった。文久3年(1863)、家茂は孝明天皇の要請に応じる形で、約3000の供を連れて京都へ赴いた。将軍の上洛は、第3代将軍・徳川家光以来、実に229年ぶりのことであった。
しかし、この上洛はかつての家光のような圧倒的な権威を誇示するものではなく、朝廷から攘夷の実行を約束させられるなど、幕府の弱体化を象徴する出来事となった。以後、日本の政治的中心は江戸から京都へと移り、家茂も江戸と上方を行き来する多忙かつ過酷な日々を送ることになる。
長州征討と若き将軍の最期
元治元年(1864)の禁門の変を経て、幕府は長州藩を朝敵として討伐する第1次長州征討を命じ、一旦は長州藩を屈服させた。しかし、高杉晋作ら倒幕派が長州藩の実権を握ると、幕府は再び武力行使を決断し、慶応元年(1865)に第2次長州征討を開始した。家茂は自ら出陣して大坂城に入り、陣頭指揮を執ろうとした。
だが、薩長同盟を密かに結んだ長州藩の近代的な軍備と激しい抵抗に遭い、幕府軍は各地で敗退を重ねた。こうした戦局悪化の心労と過労が重なる中、家茂は脚気衝心(脚気による心不全)を患い、慶応2年(1866)7月、大坂城内にて21歳の若さでこの世を去った。
総大将である将軍の死は幕府軍に決定的な打撃を与え、事実上の敗北という形で征討は中止された。後継将軍にはかつての政敵であった一橋慶喜(第15代将軍・徳川慶喜)が就任するが、幕府の命運はすでに尽きかけており、家茂の死からわずか1年余りで大政奉還を迎えることとなる。