石山
【概説】
摂津国(現在の大阪府大阪市)に存在した浄土真宗本願寺派の総本山、およびその周辺地域。広大な寺内町を形成して巨大な独立権力を誇り、のちに畿内平定を目指す織田信長と11年に及ぶ激しい戦争(石山合戦)を繰り広げた。
蓮如による開基と総本山への昇格
1496年(明応5年)、浄土真宗中興の祖である第8世蓮如が、摂津国東成郡の生玉荘内の大坂(小坂)に坊舎を建立したことが「石山」の歴史の始まりである。当初は隠居所としての性格が強かったが、水陸交通の結節点であったことから、次第に教団の重要拠点へと成長していった。
その後、1532年(天文元年)に起きた天文の錯乱において、六角氏や法華一揆の焼き討ちによりそれまでの総本山であった山科本願寺(京都市山科区)が焼失する。これを受け、第10世証如は本拠地をこの石山に移転した。これにより、石山本願寺は名実ともに浄土真宗本願寺派の総本山となったのである。
交通の要衝と巨大寺内町の形成
石山の地は、淀川と旧大和川が合流して大阪湾に注ぐ河口付近の上町台地北端に位置していた。ここは瀬戸内海から京都へと至る水陸交通の最重要衝であり、本願寺はこの地の利を活かして全国の門徒と結びつき、莫大な富を蓄積した。
本願寺の周囲には堅固な土塁や堀が巡らされ、その内部には商工業者や門徒が密集して居住する広大な寺内町(じないちょう)が形成された。この寺内町は、守護大名や国人領主の権力が及ばない治外法権(不入の権)を享受しており、強固な防御施設を備えた宗教的・経済的な独立国家の様相を呈していた。
織田信長との激闘(石山合戦)
戦国時代末期、天下布武を掲げて畿内の平定を進める織田信長は、石山が持つ圧倒的な経済力と立地の重要性に目をつけ、本願寺に対して矢銭(軍資金)の提供と石山の明け渡しを要求した。これに対して第11世顕如は強く反発し、1570年(元亀元年)に全国の門徒に檄を飛ばして蜂起した。これが11年に及ぶ石山合戦の始まりである。
本願寺は、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏(水軍による兵糧搬入)や浅井・朝倉氏、武田氏、さらには将軍足利義昭らと結びついて「信長包囲網」の最大拠点となり、信長を大いに苦しめた。また、雑賀衆などの強力な鉄砲傭兵隊も石山の防衛に活躍した。しかし、長島一向一揆や越前一向一揆が次々と信長に惨たらしく鎮圧され、頼みの毛利水軍も第二次木津川口の戦い(1578年)で織田方の鉄甲船に敗れると、石山本願寺は徐々に孤立していった。
石山の陥落と大坂城の築城
補給路を断たれ窮地に陥った顕如は、1580年(天正8年)、正親町天皇の勅命による講和(勅許)を受け入れ、ついに石山を退去して紀伊国鷺森へと移った。顕如の退去直後、石山本願寺は原因不明の出火により三日三晩燃え続け、壮麗な堂宇や巨大な寺内町は灰燼に帰した。
その後、本能寺の変を経て信長の後継者として覇権を握った豊臣秀吉は、この石山の跡地が持つ地理的・軍事的な優位性を高く評価し、1583年(天正11年)に大坂城の築城を開始した。現在、大阪城公園内には「石山本願寺推定地」の碑が建てられており、かつてこの地で強大な権力を誇り、戦国大名をも震撼させた巨大宗教都市の面影を今に伝えている。