出会貿易 (であいぼうえき)
【概説】
明の海禁政策下において、日本と中国の商人が台湾や東南アジアなどの第三国の港で合流して行った密貿易。日明間の公式な勘合貿易が途絶えた戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、双方の経済的需要を満たす主要なルートとなった。日本からの銀と中国からの生糸が取引の中心であり、後の朱印船貿易の先駆となった私貿易である。
明の海禁政策と日中の交易要求
15世紀から16世紀半ばにかけて行われていた日明貿易(勘合貿易)は、1549年の派遣を最後に断絶した。当時の明朝は「海禁政策」を国是としており、民間人の海外渡航や私的な対外貿易を厳しく禁止していた。しかし、当時の日本は戦国時代から安土桃山時代にかけて石見銀山などの開発により銀の生産量が飛躍的に増大しており、中国産の高品質な生糸(白糸)や絹織物を強く求めていた。明の国内でも日本の銀に対する需要は極めて高く、双方の商人は国法を犯してでも取引を行う機会を模索していた。
第三国を舞台とした「出会い」のメカニズム
公式な直接交易が不可能な状況下で、日中の商人が編み出したのが、明の主権や監視が及ばない「第三国」の港を仲介地とする取引方法であった。これが出会貿易である。主な交易地となったのは、当時はまだいずれの国家の支配下にもなかった台湾(日本側からは高山国や北港と呼ばれた)や、ルソン(フィリピン)、交趾(ベトナム)などの東南アジア各地の港であった。日中の商人は事前に連絡を取り合い、季節風を利用してこれらの港に渡航・合流し、銀と生糸や陶磁器を物々交換の形で取引した。
朱印船貿易への発展と貿易の国家統制
出会貿易は、アジア海域における倭寇(後期倭寇)などの非公式な海上勢力の活動と深く結びついていた。しかし、日本国内で統一政権が樹立されると、豊臣秀吉は「海賊取締令」を発布して不法な海上活動を厳しく規制した。続く徳川家康は、特定の商人に「朱印状」を発給して渡航を公認・保護する朱印船貿易を創始した。これにより、かつて非公式な密貿易として行われていた出会貿易は、幕府の強力な管理下における組織的な海外貿易へと吸収・再編されていくこととなった。