浅井長政

織田信長の妹・お市の方を正室に迎えたが、旧来の同盟国である朝倉氏に味方して信長と激しく戦った近江の大名は大名か?
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重要度
★★

浅井長政 (あざいながまさ)

1545年〜1573年

【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけての近江国北部の戦国大名。織田信長の妹であるお市を妻に迎えて同盟を結ぶも、のちに朝倉氏との同盟関係を優先して信長に反旗を翻し、姉川の戦いを経て小谷城で自害に追い込まれ滅亡した武将。

織田信長との婚姻同盟と上洛への貢献

浅井長政は近江小谷城(現在の滋賀県長浜市)を本拠とする戦国大名・浅井氏の第3代当主である。当時、尾張から勢力を拡大し、足利義昭を奉じて京都への進出(上洛)を狙っていた織田信長にとって、近江北部を支配する浅井氏は京都への進出ルートを確保する上で極めて重要な存在であった。信長は自らの妹であるお市を長政に嫁がせ、強固な婚姻同盟を結んだ。この同盟により、長政は信長の上洛戦を軍事的に支援し、織田・浅井連合軍は畿内における主導権を握ることに成功した。

金ヶ崎の退き口と信長への反逆

しかし、この同盟関係は長くは続かなかった。1570(元亀元)年、織田信長が徳川家康とともに、越前の戦国大名である朝倉義景を討伐するための軍を起こすと、長政は重大な決断を迫られることとなった。浅井家と朝倉家は祖父の代から続く強固な同盟関係にあり、「朝倉家を攻める際は浅井家に事前に相談する」という信長との約束があったとされる。信長がこれを無視して越前に侵攻したため、長政は義理と伝統的盟約を重んじて朝倉方へと加勢し、信長を背後から急襲した。これによって挟み撃ちの危機に陥った信長は、豊臣秀吉(木下藤吉郎)や明智光秀らに殿(しんがり)を命じ、命からがら京都へ逃げ帰った。これが有名な「金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)」である。

信長包囲網の形成と小谷城の戦い(滅亡)

信長に反旗を翻した長政は、朝倉義景とともに反信長勢力の中核となり、将軍・足利義昭が水面下で組織した信長包囲網の一翼を担った。同年の1570年、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍は近江国姉川で激突した(姉川の戦い)。この戦いで浅井軍は猛健ぶりを発揮したものの最終的には敗北し、戦況は次第に不利となっていく。その後も比叡山延暦寺や石山本願寺、甲斐の武田信玄らと協調して信長を包囲し続けたが、信玄の病死などにより包囲網は徐々に瓦解した。1573(天正元)年、信長の大軍による攻勢を受けて朝倉氏が滅亡すると、浅井氏の本拠である小谷城も包囲された。長政はお市と3人の娘(茶々、初、江)を城外へ逃がしたのち自害し、浅井氏は滅亡した。のちに「浅井三姉妹」と呼ばれた娘たちは、それぞれ豊臣家や徳川家といった時の最高権力者と深く結びつき、次代の日本の歴史に大きな足跡を残すこととなる。

戦国武将列伝 別巻1 織田編

群雄割拠の時代を駆け抜けた織田信長とその家臣たちの生き様を克明に描き出し、覇道の実像に迫る歴史群像の決定版。

浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫 46)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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