島津義久 (しまづよしひさ)
【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した薩摩国の戦国大名。島津氏の第16代当主として、義弘・歳久・家久という3人の優秀な弟たちを率いて九州統一を推し進めた。一時は九州のほぼ全域を支配下に置くなど絶頂期を迎えたが、豊臣秀吉の派遣した大軍に抗しきれず降伏し、出家した。
「島津四兄弟」の結束と九州平定への進撃
島津義久は、島津氏の中興の祖とされる貴久の長男として生まれた。彼の時代の島津氏は、義久を首領として、弟の島津義弘・歳久・家久が緊密に連携する「四兄弟」の強固な結束力で知られていた。義久は本国にあって政務と大局的な戦略の指揮を執り、弟たちが前線で優れた軍事力を発揮するという見事な役割分担により、島津家は急速に勢力を拡大していく。
1572年の木崎原(きざきばる)の戦いで日向の伊東氏を破り薩摩・大隅・日向の「三州統一」を果たすと、島津氏は九州全土への進出を開始した。1578年の耳川(みみがわ)の戦いでは豊後の大友宗麟を、1584年の沖田畷(おきたなわて)の戦いでは肥前の龍造寺隆信を討ち取り、大友・龍造寺の両大勢力を圧倒した。これにより、筑前や豊後の一部を除く九州のほぼ全域を事実上の支配下に置き、九州統一の覇業を目前とした。
豊臣秀吉の「惣無事令」と九州征伐での敗北
九州統一を目前にした島津氏の前に立ちはだかったのが、中央で天下人の道を歩んでいた豊臣秀吉であった。大友宗麟の救援要請を受けた秀吉は、大名間の私闘を禁じる惣無事令(そうぶじれい)を島津氏に対して発令し、大友氏との和睦を命じた。しかし、破竹の勢いにあった義久はこれを拒絶し、豊後への侵攻を続行した。
これに対し秀吉は、1587年に弟の豊臣秀長らを含む総勢20万とされる圧倒的な大軍を九州へ派遣した(豊臣秀吉の九州平定)。豊臣軍の圧倒的な物量と組織力の前に島津軍は各地で敗退を余儀なくされ、根白坂の戦いでの大敗などを経て、義久は降伏を決意する。義久はみずから剃髪して「龍伯(りゅうはく)」と号し、秀吉に降伏した。秀吉は島津氏の武力を警戒し、取り潰しを避けて薩摩・大隅・日向の一部の所領を安堵する「国分(くにわけ)」を言い渡した。
豊臣・徳川政権下での二頭政治と家名存続
降伏後、隠居した義久に代わって弟の義弘が島津氏の表舞台に立ち、豊臣政権との交渉窓口となったが、領国支配の実権は依然として義久が握り続けた。これにより島津氏の領内は、秀吉に協調的な義弘と、自主独立を維持しようとする義久による「二頭政治」の状態となった。義久は、秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に対して消極的な姿勢を崩さず、豊臣政権に対して独自の距離を保ち続けた。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、義弘は西軍に属して参戦し、敗戦時に「島津の退き口」と呼ばれる壮絶な敵中突破を行った。敗戦後、本国にいた義久は徳川家康に対し、「義弘の参戦は独断であり、島津家としての意志ではない」とする巧みな外交交渉を展開した。さらに、家康からの武力侵攻に対抗できるよう軍備を整えるという強硬な姿勢も見せ、最終的に島津氏は改易を免れ、本領を完全に安堵されるという奇跡的な和平交渉に成功した。義久の徹頭徹尾たる現実主義的な政治手腕は、後の薩摩藩が幕藩体制下で強固な自立性を維持する礎となった。