今川了俊(貞世) (いまがわりょうしゅん/さだよ)
【概説】
南北朝時代から室町時代初期にかけて活躍した武将、守護大名、そして高名な文人。室町幕府の第3代将軍・足利義満の時代に九州探題として派遣され、強力な南朝勢力を制圧して九州平定を成し遂げた政治・軍事の不世出の才人。
九州探題への就任と南朝勢力との死闘
観応の擾乱以降の九州地方は、後醍醐天皇の皇子である懐良親王(征西将軍)と菊池武光ら南朝勢力(征西府)が圧倒的な優勢を誇り、大宰府を占領して独自の政権を築いていた。これを打破するため、1370年に室町幕府の管領・細川頼之は、文武両道に秀でた今川了俊を九州探題に抜擢した。
1371年に九州へ下向した了俊は、北九州の国人領主たちを巧みに組織化し、毛利氏などの中国地方の軍勢とも連携。巧みな多方面同時侵攻作戦を展開し、翌1372年には南朝の拠点であった大宰府を奪還することに成功した。その後も執拗な掃討戦を続け、懐良親王の勢力を筑後川以南へと追い詰めていった。
外交的策略と「水島の変」による挫折
了俊は武力制圧だけでなく、九州の有力守護である大友氏、島津氏、少弐氏を味方に引き入れる外交交渉にも力を注いだ。しかし、1375年に南朝側との決戦を控えるなか、自らに非協力的であった島津氏久を暗殺しようとした「水島の変」を引き起こしてしまう。この暴挙により島津氏は激怒して離反し、他の国人衆からも不信感を買うこととなり、九州平定の完了は大幅に遅れることとなった。
それでも了俊は、外交ルートを通じて高麗(朝鮮半島)や明(中国)との交易・通交を行い、倭寇の取り締まりを通じて独自の権益を築くなど、九州における支配権を確立していった。しかし、この絶大な影響力を警戒した将軍・足利義満によって、1395年に九州探題を罷免され、中央へと召喚された。
第一級の文人・歌人としての足跡
今川了俊のもう一つの偉大な側面は、当代一流の文化人としての実績である。若き日より二条良基に師事して和歌や連歌を学び、冷泉派を代表する歌人として室町歌壇に君臨した。紀行文『道ゆきぶり』などの文学作品を残したほか、晩年には自らの弁明や今川氏の由緒、南北朝動乱の推移を記した『難太平記(なんたいへいき)』を著した。これは当時の政治情勢や武家社会の価値観を知る上で、極めて価値の高い歴史史料となっている。