親魏倭王 (しんぎわおう)
【概説】
239年(景初3年)、中国三国時代の魏の皇帝から、邪馬台国の女王である卑弥呼に対して授与された称号。魏に親しい倭の王であることを意味し、当時の中国王朝が周辺の異民族の君長に対して与えるものとしては最高位に位置づけられる。
東アジア情勢と卑弥呼の遣使
3世紀前半、中国大陸は後漢の滅亡後、魏・呉・蜀が覇権を争う三国時代に突入していた。このうち華北から朝鮮半島にかけて勢力を張っていた魏に対して、239年(景初3年)、倭の邪馬台国の女王・卑弥呼は、大夫の難升米(なしめ)らを帯方郡を通じて派遣し、朝貢を行った。当時の魏は、長らく遼東半島を支配し倭や韓と結びついていた公孫氏を前年に滅ぼしたばかりであった。
魏の皇帝である明帝(曹叡)は、遥か遠方の倭国から海を越えて使者が訪れたことを大いに喜び、卑弥呼に対して詔書とともに「親魏倭王」の称号と金印紫綬(きんいんしじゅ)、さらに銅鏡百枚をはじめとする莫大な恩賜品を与えた。この一連の出来事は、中国の正史『三国志』の中の「魏書」東夷伝倭人条、いわゆる『魏志』倭人伝に詳細に記録されている。
「親魏」という称号の特異性と魏の思惑
「親魏倭王」という称号は、中国王朝を中心とする国際秩序(冊封体制)において極めて特別な意味を持っていた。中国歴代王朝は周辺の異民族の君長に対して爵位や称号を与えて従属関係を結んだが、通常は「帰義(きぎ)」などの称号が用いられることが多かった。しかし「親魏」という冠称は、魏と対等に近い同盟国、あるいは極めて重要な親善国にのみ与えられる最高ランクの称号であった。
実際、魏が「親魏」の称号を与えたのは、西域の強国である大月氏国の王(親魏大月氏王)と倭王の二例のみであるとされている。魏が遠く離れた倭国をこれほどまでに厚遇した背景には、敵対する江南の呉を背後から牽制するため、東夷の有力な勢力である倭国を自陣営に引き入れておくという、高度な外交的・戦略的思惑があったと考えられている。
邪馬台国における国内統治への利用
一方、朝貢を行った卑弥呼の側にも、中国王朝の強大な権威を必要とする切実な国内事情があった。当時の倭国は、長らく続いた「倭国大乱」と呼ばれる争乱を経て、邪馬台国を中心とする約30の小国連合を形成していたものの、南方に位置する狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみここ)とは激しく対立しており、国内情勢は依然として不安定であった。
卑弥呼は、魏から「親魏倭王」の称号と金印を獲得することで、自身が東アジアの覇者である魏から公認された正統な統治者であることを示し、国内の諸国に対する支配権を強固なものにしようとしたのである。また、下賜された多数の銅鏡(三角縁神獣鏡などの説がある)を各地の首長に分配することで、自らの宗教的・呪術的な権威を高め、列島内での求心力を維持する効果も狙っていた。
史料的価値と金印の行方
「親魏倭王」の称号授与は、弥生時代後期の日本列島において広域の政治連合が形成され、それが東アジア全体の国際情勢と密接に連動して動いていたことを証明する第一級の史実である。1世紀の奴国が後漢の光武帝から授与された「漢委奴国王」の金印(志賀島で発見)が純金製で「蛇鈕(だちゅう)」であったのに対し、卑弥呼に与えられた金印は、より上位の証である「亀鈕(きちゅう)」であったと推測されている。
現在に至るまで「親魏倭王」の金印そのものは発見されていないが、もし将来出土することがあれば、邪馬台国の所在地論争(畿内説・九州説)に決着をつける可能性を秘めており、日本古代史における最大の考古学的発見のひとつになることは間違いない。