後亀山天皇 (ごかめやまてんのう)
【概説】
南北朝時代の南朝第4代にして最後の天皇。室町幕府第3代将軍の足利義満が提示した和平条件を受け入れて京都へ帰還し、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲ることで南北朝合一を成し遂げた君主である。
南北朝の衰亡と義満の和平工作
14世紀後半、南朝は擁立者である新田氏や楠木氏ら有力武将の相次ぐ敗死に加え、南朝を支えた九州の懐良親王の勢力衰退により、軍事的に完全に窮地に追い込まれていた。1383年、主戦派であった兄の長慶天皇から譲位された後亀山天皇は、大和国の吉野山中に孤立し、名目的な抵抗を続けるほかない状態となっていた。
一方、室町幕府の権力を確立し、有力守護大名の制圧を進めていた将軍足利義満は、幕府権力の正統性を完璧なものにするため、南朝の吸収による「天下平定」を模索した。義満は1392年、南朝の重臣である吉田宗房らを通じて和平交渉を展開し、後亀山天皇に対して極めて好条件の和平案を提示した。これが南北朝合一の端緒となる。
「明徳の和約」による合一と挫折
1392年(明徳3年)、後亀山天皇は義満の和平提示を受諾し、吉野を出て京都の大覚寺へと入った。この和平交渉は明徳の和約と呼ばれる。その主要な合意内容は、(1)今後の皇位継承は持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)とすること、(2)全国の国衙領(国司が支配する公領)の半分を大覚寺統の支配領(直務領)とすること、などであった。
後亀山天皇は、三種の神器を北朝の後小松天皇に引き渡し、譲国の儀式を行うことで南北朝合一を達成した。後亀山自身には「太上天皇(上皇)」の尊号が贈られ、平和的な統一が成ったかのように見えた。しかし、この約束は足利義満および幕府側による事実上の計略であった。後小松天皇の次の皇位には、約束を破って北朝(持明院統)の実子(称光天皇)が即位し、南朝側への領地譲渡も満足に行われなかった。後亀山天皇が受け入れた和約は、完全に反故にされたのである。
後南朝運動の火種へ
約束を違えられた後亀山法皇(合一後に出家)は、幕府への抗議と失望から、1410年に京都を脱出して再び吉野へ逃れるという挙に出た。その後、幕府の説得により帰京したものの、この裏切りに対する大覚寺統(旧南朝)の子孫たちの怒りは収まらなかった。
後亀山天皇の死後、旧南朝の遺臣や皇族たちは、皇位の奪還を目指して室町幕府に対する武装蜂起を繰り返した。これらの一連の抵抗運動は後南朝(ごなんちょう)運動と呼ばれ、15世紀半ばの「禁闕の変(きんけつのへん)」における三種の神器奪取事件などを引き起こし、室町幕府の地方支配を動揺させる火種として長く残り続けることとなった。