日野俊基 (ひのとしもと)
【概説】
鎌倉時代末期の公家であり、後醍醐天皇の討幕計画を支えた側近。同族の日野資朝とともに宋学(朱子学)を奉じて倒幕の密議を重ね、二度にわたる討幕運動(正中の変・元弘の変)を主導したが、志半ばで鎌倉幕府により処刑された悲劇の志士。
「無礼講」と討幕運動の萌芽
日野俊基は、格式を重んじる従来の公家社会において、実務官僚として頭角を現した日野家の一族である。当時、後醍醐天皇は鎌倉幕府による皇位継承への介入(両統迭立)に不満を抱き、天皇親政の実現を目指して討幕の機会をうかがっていた。俊基は同じく側近であった日野資朝とともに、後醍醐天皇の近臣グループ(「後の三房」など)の中心人物として活動した。
彼らは、身分の上下を取り払って自由な議論を行う「無礼講」と称する宴会をたびたび催した。この無礼講は単なる懇親の場ではなく、当時の新学問であった宋学(朱子学)の大義名分論に基づき、幕府打倒の具体的な方策を練るための擬装された密議の場であった。俊基らはここで畿内の新興武士層(悪党など)との結びつきを強め、討幕のネットワークを広げていった。
二度の討幕計画と俊基の最期
1324年(正中元年)、俊基らの討幕計画は事前に漏洩し、六波羅探題によって日野資朝らとともに逮捕された(正中の変)。俊基は鎌倉に送られて厳しい取り調べを受けたが、巧みな弁明によって罪を免れ、京都に帰還を許された。しかし、討幕への志を捨てることはなく、その後も山伏に変装して諸国を巡り、守護や武士たちに討幕への協力を呼びかけ続けたとされる。
1331年(元弘元年)、再び討幕計画が発覚した元弘の変において、俊基は再度捕らえられた。この時は言い逃れが通じず、再び鎌倉へ護送された。翌1332年(元弘2年/正慶元年)、鎌倉の葛原ヶ岡(現・神奈川県鎌倉市)において斬首された。処刑に際して詠んだとされる「秋風を 恨むる肩の 袂かな」という辞世の句は、志半ばで倒れる無念さと美学を今に伝えている。
俊基の死がもたらした歴史的影響
日野俊基の刑死は、一見すると討幕運動の失敗を意味するように思われた。しかし、彼らが播いた倒幕の種は着実に各地の武士たちに根付いていた。俊基の処刑直後、後醍醐天皇が隠岐に流されたものの、楠木正成や赤松円心らが呼応して挙兵し、最終的には足利尊氏や新田義貞らの離反を招いて1333年の鎌倉幕府滅亡へとつながっていく。
俊基ら「バサラ」とも評される新興知識人の行動力と政治思想は、旧来の貴族社会の枠組みを超え、のちの南北朝時代から室町時代へと続く激動の社会変動(下剋上)の先駆となった点において、日本中世史上きわめて重要な役割を果たしたといえる。