本願寺
【概説】
京都にある浄土真宗の総本山。親鸞の廟所を守る堂から発展し、のちに第8世蓮如によって巨大教団の拠点となった寺院である。戦国時代には石山本願寺を拠点として強大な軍事力・経済力を誇り、一向一揆を通じて織田信長ら天下人と激しい抗争を繰り広げた。
大谷廟堂の建立と「本願寺」の成立
本願寺の起源は、鎌倉時代中期の1262年(弘長2年)に没した浄土真宗の宗祖・親鸞の墓所にある。親鸞の死後、末娘の覚信尼ら門弟たちが京都東山の大谷に廟堂(大谷廟堂)を建立し、遺骨を安置したのが実質的な始まりである。その後、第3世の覚如が廟堂を寺院化し、1321年(元亨元年)頃に「本願寺」と公称したとされる。
しかし成立初期の本願寺は、天台宗の門跡寺院である青蓮院の末寺という法的な立場に甘んじていた。また、浄土真宗の内部においても、関東を拠点とする高田派や、京都で勢力を伸ばしていた仏光寺派などが有力であり、本願寺は長らく弱小な一派閥にすぎなかった。
蓮如による教団の飛躍的拡大
室町時代中期、本願寺の運命を大きく変えたのが第8世・蓮如の登場である。蓮如は、親鸞の教えを平易な仮名交じりの手紙にした「御文章(御文)」を各地の門徒に送り読み聞かせるという革新的な布教方法を採用した。また、惣村の発達という当時の社会的背景に合わせ、村落単位の信仰組織である「講」を編成し、農民や地侍・国人層の心を急速に掴んでいった。
この爆発的な教線の拡大は、旧仏教勢力である比叡山延暦寺の警戒を招き、1465年(寛正6年)には延暦寺の衆徒によって大谷の本願寺が破却される事件(寛正の法難)が起きた。京都を追われた蓮如は近江や越前吉崎を転々とするが、これがかえって北陸地方や畿内における真宗の普及を促す結果となった。のちに蓮如は京都山城に壮大な山科本願寺を造営し、強大な教団の基盤を確立した。
一向一揆と戦国大名化する本願寺
教団の巨大化は、信仰で固く結びついた門徒たちによる一向一揆を引き起こした。特に1488年の加賀一向一揆では、守護の富樫政親を自刃に追い込み、以後約100年にわたって門徒による自治支配(「百姓の持ちたる国」)を実現した。一向一揆は近畿・東海・北陸の各地で頻発し、領域支配を推し進める戦国大名にとって最大の脅威となった。
戦国時代に入ると、山科本願寺が法華一揆によって焼失(1532年)したため、第10世証如は拠点を大坂の石山本願寺に移した。ここは水陸交通の要衝であり、周囲には防御施設を兼ねた大規模な寺内町が形成された。豊富な富と鉄砲などの最新兵器を蓄えた本願寺は、事実上の一大戦国大名と化していた。天下統一を目指す織田信長はこれを危険視し、1570年から10年にも及ぶ激しい攻防戦(石山合戦)を繰り広げた。第11世顕如は諸国の一向一揆を動員して頑強に抵抗したが、最終的には正親町天皇の勅命講和を受け入れ、大坂から退去した。
東西分裂とその後の展開
石山合戦の終結時、信長との和睦を巡って徹底抗戦を主張する教団内部の対立が生じた。この内部対立は、本願寺のその後の歴史に決定的な影響を与えることになる。豊臣秀吉の時代には手厚い庇護を受け、現在の京都・堀川に寺地を与えられて復興を遂げたが、徳川家康が江戸幕府を開くと事態は急転する。
1602年(慶長7年)、家康は強大な本願寺教団の勢力を分断・弱体化させる政治的意図から、隠居していた前法主の教如に烏丸七条に新たな寺地を与えた。これにより本願寺は、顕如の跡を継いだ准如の西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、教如が創設した東本願寺(真宗大谷派)に分裂した。両本願寺は江戸幕府の本山・末寺制度の統制下に置かれながらも、日本最大級の仏教教団としての命脈を保ち続け、現在に至っている。