左京
【概説】
古代日本の条坊制都城において、中央を南北に貫く朱雀大路の東側に位置した半分の区画。北端の宮城に座す天皇から見て左側に相当することに由来する地名。行政・治安維持のために左京職が置かれ、経済活動の中心として東市が設置された。
「天子南面」の思想と左右の空間認識
飛鳥時代後期から奈良・平安時代にかけて建設された日本の都城(藤原京、平城京、平安京など)は、古代中国の都城制を模範として設計された。これらの都城では、天皇の居住区や政庁である宮城(内裏)が最北部に配置され、そこから南に向けてメインストリートである朱雀大路が通されていた。
東側の区画が「左京」と呼ばれる理由は、東洋の伝統的な政治思想である「天子南面(てんしなんめん)」に基づいている。天皇は南を向いて政務を行うため、天皇の視点から見て左手(東側)が「左京」、右手(西側)が「右京」と定義された。現代の地図の感覚では東は右側にあたるが、古代の政治空間においては支配者の視点が基準となったため、左右が逆転して認識されていた。なお、東洋の思想では一般に「左」が「右」よりも上位(尊位)とされたため、儀礼や官職の序列(左大臣・右大臣など)と同様に、左京は右京に対して心理的・象徴的な優位性を持っていた。
左京職の設置と東市の繁栄
左京の区域内における行政、治安維持、裁判、戸籍管理などの実務を担うため、朝廷は律令制に基づき左京職(さきょうしき)と呼ばれる官司を設置した。これは右京を管轄する右京職と並び、京内を統治する重要な組織であった。
また、都における経済活動を統制・活性化させるため、左京には東市(ひがしのいち)が設置された。東市では、官司が管理するもとで全国から集まる特産物や官人の俸禄(給与)として支給された布などが取引された。右京の「西市」とともに、都の居住者たちの生活を支える極めて重要な流通・商業の拠点であった。
環境の差異と平安京における「左京」の独占的発展
平城京や平安京の造営当初は、左京と右京は対称的に整備されていたが、実際の地理的環境には大きな差異が存在した。特に平安京においては、西側の右京は桂川に近い低湿地であったため水はけが悪く、瘧(おこり:マラリアなどの熱病)の発生や浸水被害が相次いだ。このため、右京の居住環境は著しく悪化し、官人や庶民は次第に右京を避けて移転していった。
これに対して、東側の左京は鴨川の扇状地にあたり、地盤が堅固で排水も良かったため、貴族の邸宅や大寺院が競って建設された。結果として、平安中期以降の「京都」の実質的な都市空間は左京(および東の鴨川方面)へと偏って拡大・発展していくことになり、これが後世の中世都市「洛中」の土台となった。