宗氏
【概説】
対馬国(現在の長崎県)を拠点とし、鎌倉時代から幕末にかけて同地を支配した武家・守護大名・近世大名。日本と朝鮮半島の中間に位置する地理的条件を最大限に活かし、中世から近世を通じて日朝貿易や外交の実務を独占することで特異な地位を築き上げた。
対馬の掌握と元寇における激戦
宗氏の出自については諸説あるが、大宰府の在庁官人であった惟宗(これむね)氏の出身であるとする説が有力である。鎌倉時代に入ると、当時の対馬の実力者であった在庁官人の阿比留氏を討伐して対馬の実権を掌握し、地頭代などの役職を得て勢力を拡大していった。宗氏の歴史において特筆すべき初期の出来事は、1274年の文永の役(元寇)である。当時の当主であった宗助国は、圧倒的な兵力を誇る元・高麗連合軍の襲来に対し、わずかな手勢を率いて対馬の小茂田浜で邀撃した。助国らは凄惨な戦闘の末に一族とともに玉砕したが、この劇的な出来事は、国防の最前線という対馬の過酷な地政学的宿命を象徴している。
前期倭寇の統制と日朝貿易の独占
南北朝時代から室町時代にかけて、宗氏は正式に対馬の守護に補任され、守護大名としての地位を確立した。この14世紀後半から15世紀にかけて、東アジア海域では前期倭寇と呼ばれる海賊集団が猛威を振るい、高麗や建国間もない朝鮮王朝(李氏朝鮮)を大いに苦しめていた。朝鮮側は武力討伐(応永の外寇など)を試みる一方で、対馬の支配者である宗氏に対して倭寇の鎮圧と統制を強く要請した。
宗貞茂・宗貞盛らはこの要請に応えて倭寇を厳しく取り締まる一方、その見返りとして朝鮮から特権的な通交権を獲得していった。1443年には朝鮮との間で嘉吉条約(癸亥約条)が結ばれ、宗氏が朝鮮へ派遣する歳遣船の数や支給される米豆の量が規定された。平地が少なく米の収穫が極端に乏しい対馬にとって、朝鮮との貿易利益や食糧援助は領国経営の生命線であり、宗氏は日朝間の貿易と外交の窓口を独占することで莫大な富と権力を手にしたのである。
秀吉の朝鮮出兵における板挟みの苦悩
戦国時代に入り、朝鮮半島南部の日本人居留地で起きた三浦の乱(1510年)などを契機に日朝関係は悪化し、宗氏は幾度も貿易断絶の危機に直面した。さらに宗氏にとって最大の試練となったのが、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)である。当時の当主・宗義智は、秀吉からの強硬な服属・道案内要求と、決してこれに応じない朝鮮王朝との間で絶望的な板挟みとなった。義智は国書を偽造・改ざんしてでも戦争を回避しようと奔走したが、その努力は実らず開戦に至る。地理的要因から先陣として朝鮮へ渡海することを余儀なくされた宗氏は、日朝両国から疑いの目を向けられながら、最前線で泥沼の戦争に従軍するという極めて困難な立場に立たされた。
江戸時代の日朝国交回復と「対馬藩」の成立
関ヶ原の戦いの後、覇権を握った徳川家康は朝鮮との平和的な国交回復を望み、その折衝役を宗義智に命じた。義智をはじめとする対馬の外交僧らは、国書を再び改ざんするという危険な手段を用いてでも粘り強く交渉を行い、1609年に己酉約条(きゆうやくじょう)を締結して国交を回復させることに成功した。これにより宗氏は、幕藩体制下において実高は数万石程度でありながら、10万石格の国主大名(対馬府中藩)として格別の待遇を受けることとなった。
江戸時代の宗氏は、釜山に和館(倭館)という巨大な日本人街を建設して日朝貿易を独占し、特産品の朝鮮人参や生糸の取引で莫大な利益を上げた。また、将軍の代替わりごとに来日する朝鮮通信使の案内・接遇役を務め、両国の平和維持に欠かせない存在となった。1635年には国書偽造が幕府に発覚する「柳川一件」という重大な危機に見舞われたものの、幕府は日朝外交の実務を担う宗氏の存在を不可欠と判断し、当主の改易を免れている。宗氏は、強大な武力や広大な農業領地ではなく、特異な境界的立地と高度な外交ノウハウによって激動の時代を生き抜いた、日本史上でも希有な大名であったといえる。