一色氏

四職を構成する4氏のうち、丹後国などの守護を務めた足利氏の一門は何か?
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★★★

【参考リンク】
一色氏(Wikipedia)

一色氏

【概説】
室町幕府において侍所の頭人(長官)を輩出する「四職家(ししきけ)」の一つに数えられた足利氏の一族。室町時代を通じて丹後や若狭、三河などの守護を歴任し、幕政の中枢で強大な権勢を誇った。しかし、将軍足利義教による粛清で勢力を大きく後退させ、戦国時代には丹後の地方大名へと転落し、のちに織田信長の侵攻を受けて滅亡した。

足利氏一門からの勃興と九州探題

一色氏は、清和源氏義国流の足利氏から分派した一族である。鎌倉時代に足利泰氏の七男・一色公深(こうしん)が、三河国吉良荘一色(現在の愛知県西尾市)を領して一色氏を称したことに始まる。足利氏の有力な一門として、同格の吉良氏や渋川氏などとともに「御一家」という高い格式を持った。

南北朝時代の動乱期に入ると、公深の孫である一色範氏(のりうじ)やその子・直氏らは足利尊氏の挙兵に従って各地を転戦した。尊氏が九州に逃れた際にもこれに従い、尊氏が東上して室町幕府を開いたのちも九州に留まり、南朝方の菊池氏らと激しい抗争を繰り広げた。彼らは初代の九州探題として幕府の九州統治の先駆けとなったが、のちに今川貞世(了俊)が新たな九州探題として派遣されると、九州における一色氏の勢力は衰退し、中央へと復帰することになる。

四職家への列座と勢力の絶頂

中央に復帰した一色氏は、足利一門という高い家格を背景に幕府の中枢で重きをなした。京都の治安維持や御家人の統制を担う侍所の頭人(長官)に任じられ、赤松氏・京極氏・山名氏とともに四職(ししき)と呼ばれる幕府の最高幹部の家柄を形成した。

勢力の拡大は領国支配にも及び、一色範氏の次男・一色詮範(あきのり)の代には若狭・三河の守護を獲得した。さらにその子・満範の代には、明徳の乱で山名氏を討伐した功績により、丹後などの守護にも任じられた。15世紀前半の一色義貫(よしつら)の時代には、丹後・若狭・三河・尾張などの守護を兼任し、一色氏の勢力は絶頂期を迎えることとなる。

足利義教の専制政治と義貫暗殺

しかし、強大化した一色氏の権力は、将軍の専制政治を目指す幕府との間に摩擦を生むこととなった。第6代将軍足利義教は、「万人恐怖」と称される過酷な独裁体制を敷き、有力守護大名の弱体化を図った。

永享12年(1440年)、大和国で発生した反乱(大和永享の乱)の鎮圧に向かっていた一色義貫は、将軍・義教の密命を受けた武田信栄らによって陣中で暗殺されてしまう。この粛清劇により、一色氏は若狭や三河などの重要拠点となる領国を没収された。とくに若狭国は暗殺の実行犯である武田氏(若狭武田氏)に与えられ、一族の勢力は丹後や伊勢半国などを残すのみとなり、大きく後退を余儀なくされた。

応仁の乱と没落、そして滅亡へ

その後、一色義直は失地回復を狙い、応仁元年(1467年)からの応仁の乱において山名宗全が率いる西軍に与した。義直は、旧領の若狭を幕府から与えられていた東軍の若狭武田氏や細川氏と激しい戦いを繰り広げたが、結局旧領を取り戻すことはできず、乱後も本国である丹後一国に押し込められる形となった。

戦国時代に入ると、一色氏は丹後国の戦国大名として命脈を保ったが、相次ぐ家臣(国衆)の離反や、隣国である若狭武田氏、丹波などを支配する細川氏との慢性的な抗争に疲弊していった。天正年間(1570年代後半)、天下統一を進める織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)・忠興父子による激しい丹後侵攻を受ける。一色義有や一色義定らは地の利を活かして頑強に抵抗したものの、最終的には細川氏の計略により謀殺され、室町幕府の名門・一色氏はここに滅亡した。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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