赤松氏 (あかまつし)
【概説】
室町幕府において侍所の頭人を務める四職家の一つで、播磨・備前・美作などの守護を世襲した有力守護大名。6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱を引き起こしたことで知られる。幕府の討伐を受けて一時滅亡するものの、のちに劇的なお家再興を果たし、戦国時代まで存続した。
鎌倉末期の台頭と室町幕府創設への貢献
赤松氏は村上源氏の流れを汲むとされる武家で、鎌倉時代には播磨国の地頭を務めていた。歴史の表舞台に登場するのは鎌倉時代末期である。当主の赤松則村(円心)は、後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)に呼応し、護良親王の令旨を受けて挙兵した。則村は優れた戦術で幕府軍を翻弄し、六波羅探題の滅亡に多大な貢献を果たした。
しかし、成立した建武の新政において恩賞への不満を抱いた則村は、新政から離反した足利尊氏に従うようになる。湊川の戦いなどで新田義貞らを破る武功を挙げ、室町幕府の創設に尽力した。この功績により、赤松氏は播磨などの守護職を獲得し、幕府の重鎮としての基盤を強固なものとした。
「四職」としての繁栄と権力基盤
室町時代に入ると、赤松氏は山名氏・一色氏・京極氏とともに、京都の治安維持や御家人統制を担う侍所の長官(頭人・所司)を交代で務める四職(ししき)の家柄として幕政に深く関与した。最盛期には播磨・備前・美作の三ヶ国の守護を世襲し、西国における強力な軍事力と豊かな経済力を有する屈指の有力守護大名へと成長を遂げた。
将軍専制との衝突と「嘉吉の乱」
赤松氏の運命を大きく変えたのは、6代将軍足利義教の登場であった。義教は失墜していた将軍権力の強化を目指して強権的な専制政治を推し進め、意に沿わない有力守護大名への弾圧や家督継承への介入を繰り返した。当時、赤松氏の家督を継いでいた赤松満祐は、義教による所領の一部没収や、一族内での家督介入に対して強い危機感と不満を募らせていた。
1441年(嘉吉元年)、満祐は結城合戦の祝勝会と称して自邸に義教を招き、宴の最中に義教を暗殺するという前代未聞の凶行に及んだ(嘉吉の乱)。将軍暗殺という未曾有の事態を引き起こした満祐は領国の播磨へ逃れたが、山名宗全(持豊)を主力とする幕府の討伐軍に敗れて自刃した。これにより赤松氏は守護職と所領をすべて奪われ、一時滅亡の憂き目に遭うこととなった。
劇的なお家再興と戦国大名化、そして滅亡へ
没落した赤松氏であったが、遺臣たちは悲願であるお家再興に向けて水面下で活動を続けた。1457年(長禄元年)、赤松政則ら遺臣の一党は、吉野の奥地に潜伏していた後南朝勢力を襲撃し、彼らに奪われていた三種の神器の一つである神璽(八尺瓊勾玉)を奪還する功績を挙げた(長禄の変)。この武功により、幕府から家名の再興と備前半国の守護職獲得が認められたのである。
その後、1467年に勃発した応仁の乱において、政則は細川勝元率いる東軍に属して参戦した。政則は旧敵である西軍の山名氏から旧領の播磨・備前・美作の守護職を実力で取り戻すことに成功し、赤松氏の全盛期を思わせる勢力を回復した。
しかし戦国時代に入ると、守護代であった浦上氏の台頭による下剋上や、一族内部での抗争が激化し、大名としての統制力は急速に失われていった。周辺の尼子氏や毛利氏、織田氏の勢力拡大の波に呑まれ、最終的には織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播磨平定の過程で臣従し、大名としての赤松氏の歴史は幕を閉じた。