四職 (ししき)
【概説】
室町幕府において、京都の治安維持や刑事裁判を司る侍所の長官(所司)に交代で就任した、赤松・一色・京極・山名の4氏の総称。管領を輩出する三管領に次ぐ高い家格とされ、室町幕府の合議制的な政治体制を支える中核的な存在であった。
侍所と四職の役割
室町幕府の侍所(さむらいどころ)は、御家人の統制のほか、首都である京都の警察権や刑事裁判権を管轄する極めて重要な機関であった。侍所の長官は所司(しょし)と呼ばれ、首都周辺の軍事的な要衝である山城国の守護を兼任することが通例とされた。この所司の地位は、将軍の親任が厚く軍事力に優れた特定の有力守護大名から選ばれるようになり、次第に赤松氏(あかまつし)、一色氏(いっしきし)、京極氏(きょうごくし)、山名氏(やまなし)の4氏に固定化されていった。この4氏を総称して四職(ししき)と呼ぶ。
「三管四職」体制の確立
四職という枠組みは、第3代将軍足利義満の時代に幕府の職制が整備される過程で確立した。将軍を補佐して幕政を統轄する最高の役職である管領(かんれい)には、斯波(しば)・細川(ほそかわ)・畠山(はたけやま)の3氏が交代で就任し、これを「三管領」と呼んだ。四職はこの三管領に次ぐ家格と位置づけられ、これらを合わせて「三管四職(さんかんししき)」と称した。この体制は、少数の有力守護大名が幕政を分掌する、室町幕府特有の宿老政治(連合政権的な性格)を象徴するものであった。
各氏の動向と盛衰
四職を構成する4氏は、いずれも複数の国を支配する強力な守護大名であった。足利氏の一門である一色氏は丹後や若狭などを地盤とし、四職の中でも最も多く所司を輩出した。佐々木氏の庶流である京極氏は近江北半や出雲などを支配した。
一方で、播磨などを地盤とする赤松氏と、一時は全国の6分の1を領して「六分の一殿」と呼ばれた山名氏は、幕府の将軍権力強化の標的となり、それぞれ嘉吉の乱(1441年)と明徳の乱(1391年)で討伐され一時没落を余儀なくされた。しかし、後に幕政のパワーバランスの中で両氏とも再興を果たしており、有力な家格が制度として維持される室町幕府の構造的な特徴を示している。
応仁の乱と四職の解体
室町時代後期になると、将軍家の家督継承問題に、管領家や四職の権力闘争が複雑に絡み合い、1467年に応仁の乱が勃発する。この大乱では、山名宗全(持豊)が西軍の総大将となったほか、一色義直も西軍に属し、一方で赤松政則や京極持清は東軍に加担するなど、四職の内部でも激しい軍事衝突が展開された。
11年に及ぶ乱の結果、幕府の権威は完全に失墜し、京都の侍所が持つ警察的機能も有名無実化した。さらに戦国時代へと突入すると、領国へ下った四職の当主たちも守護代や国人の下克上に直面することになる。かつて幕政を動かした名門の当主たちは実権を奪われ、歴史の表舞台から次第に姿を消していくこととなった。