得宗

北条時頼の時代頃から確立し、鎌倉時代後期には専制的な権力を握るようになる北条氏の家督(嫡流)のことを何と呼ぶか?
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得宗 (とくそう)

13世紀前半〜1333年

【概説】
北条義時の法名に由来するとされ、鎌倉時代を通じて幕府の実権を握った北条氏の家督(嫡流)のこと。当初は幕府の最高職である執権職と一体化して権力を振るったが、のちに執権をも凌駕する超法規的な存在となり、私的な合議機関を中心に幕政を専断する「得宗専制政治」を展開した。

名称の由来と「得宗家」の確立

「得宗」という名称は、鎌倉幕府の2代執権であった北条義時の法名、あるいは追号(死後におくられた名)である「徳崇(とくそう)」が転じたものだとされている。義時は承久の乱(1221年)を主導して朝廷を打ち破り、幕府の全国的な支配権を確立した人物である。彼の系統が北条氏の正統な嫡流として位置づけられ、3代泰時、4代経時、5代時頼と代々継承されていく中で、名越氏や極楽寺氏といった北条一門の庶流(分家)と明確に区別されるようになり、北条家一門の頂点に君臨する当主家としての権威を固めていった。

執権と得宗の分離、「得宗専制政治」の展開

鎌倉時代前期から中期にかけては、原則として「得宗の当主」が幕府の公的な最高職である「執権」に就任し、公私ともに最高権力者として振る舞っていた。しかし、5代執権・北条時頼が病によって執権職を北条長時(極楽寺流)に譲った後も、幕府の実権を手放さず「得宗」として政治を主導し続けたあたりから、執権(公職)と得宗(北条氏の私的な家督)の分離が始まる。

その後、元寇(文永・弘安の役)という未曾有の対外危機を迎えると、8代執権・北条時宗(得宗)は非常時大権を行使し、九州をはじめとする西国の御家人に対する統制を飛躍的に強化した。さらに9代執権・北条貞時の時代になると、幕府の本来の最高合議機関であった評定衆や引付衆は形骸化し、得宗の私邸で開かれる寄合(よりあい)という私的な会議において幕政の重要事項が決定されるようになった。このように、得宗という私的な立場が幕府の公的な機構を飲み込み、政治を独裁する体制を歴史学では「得宗専制政治」と呼ぶ。

御内人と内管領の台頭による幕府内の亀裂

得宗の権力が絶大になるにつれ、得宗家に直接仕える私的な家臣である御内人(みうちびと)が台頭するようになった。彼らは本来、将軍の直臣である一般の御家人よりも格下の存在であったが、得宗の威光を背景に幕府内で強大な権力を振るうようになる。特に御内人の筆頭である内管領(ないかんれい)は、得宗の代理人として国政を動かすまでの実力を身につけた。

この事態は、旧来の有力御家人たちの強い反発を招いた。幕府を公的な御家人の連合体として維持しようとする安達泰盛ら有力御家人と、得宗の独裁を推進する平頼綱ら御内人との対立は激化し、1285年には霜月騒動という武力衝突に発展した。この事件で安達氏が滅亡したことにより、御家人の政治的影響力は著しく低下し、得宗とその側近である御内人による専制体制が完成することとなった。

得宗権力の歴史的意義と終焉

得宗権力は、源氏将軍が3代で絶えた後、京から招かれた傀儡の将軍(藤原将軍や親王将軍)を擁しつつ、鎌倉幕府の存続を可能にする実質的な君主権力として機能した。しかし、得宗家および御内人への極端な権力と所領の集中は、元寇後の恩賞不足や経済的困窮にあえぐ一般御家人たちの深い不満と不信を醸成した。

鎌倉時代末期、14代執権・北条高時の代になると、内管領の長崎高資らが権勢を振るい、得宗家の専横に対する反発は頂点に達した。諸国で悪党が蜂起し、社会不安が増大する中、得宗権力はかつての求心力を完全に喪失していた。最終的に、後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した新田義貞や足利尊氏らによって1333年(元弘3年)に鎌倉が攻め落とされ、高時ら北条一族が東勝寺で自刃したことで鎌倉幕府は滅亡し、絶対的な権力を誇った得宗家も歴史の表舞台から姿を消したのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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