塩浦 (えんぽ)
【概説】
室町時代の日朝貿易において、朝鮮王朝(李氏朝鮮)が日本人の居留と交易を公認した朝鮮半島南部の3つの港(三浦)の一つ。現在の韓国・蔚山広域市周辺に位置し、対馬西方の乃而浦や富山浦とともに、倭寇の禁圧と対日懐柔策の一環として開港された貿易拠点。
「三浦体制」の成立と塩浦の地理的特性
14世紀から15世紀にかけて活発化した倭寇(後期倭寇)に対し、朝鮮王朝(李氏朝鮮)は軍事的な掃討を行う一方で、対馬の守護・宗氏らを通じて日本側の通交者を優遇・懐柔する政策をとった。その一環として、15世紀初頭までに朝鮮半島南岸の3つの港を開港し、日本人の往来や居住、交易を認めた。これが三浦(さんぽ)であり、乃而浦(せいほ/ないじほ)、富山浦(ふざんぽ)、そして最も東側に位置した塩浦(えんぽ)がこれに該当する。
塩浦が置かれた蔚山(ウルサン)は、かつての新羅の都・慶州の外港として古くから栄えた地であった。対馬に近い乃而浦や富山浦が主に対馬島民や西国武士に利用されたのに対し、東側に開けた塩浦は、対馬以外の日本各地の領主、東国の商人、さらには室町幕府が派遣した使節なども多く利用し、日朝間の経済・文化交流において独自の玄関口として機能した。
「恒倭」の定住と日朝貿易の展開
塩浦をはじめとする三浦には、日本からの使節を接待・宿泊させ、交易を行うための倭館(わかん)が設置された。交易では、日本側からは銅や硫黄、東南アジアから輸入された胡椒や木香などの香辛料・薬薬が持ち込まれ、朝鮮側からは大量の朝鮮人参や大蔵経、そして衣料品や貨幣として重要だった綿布(木綿)が日本へともたらされた。
やがて三浦には、交易や漁業のために現地に長期滞在し、そのまま土着する日本人居留民が現れた。彼らは恒倭(こうわ)と呼ばれ、数千人規模に膨れ上がった。恒倭たちは次第に周辺地域での密貿易や密漁、さらには脱税などの違法行為を行うようになり、治安の悪化を懸念した朝鮮王朝は、次第に日本人の取り締まりや交易制限(受職倭人への統制など)を強めていくこととなった。
三浦の乱による廃港と歴史的意義
朝鮮王朝による締め付けの強化や関税の引き上げに対し、生活権を脅かされた三浦の恒倭たちは強い不満を抱いた。1510年、対馬の宗盛順らの軍事的支援を受けた恒倭は、朝鮮側の官衙を襲撃して大規模な反乱を起こした。これが三浦の乱(さんぽのらん)である。
この反乱は朝鮮王朝の軍勢によって徹底的に鎮圧され、日朝関係は一時断絶した。1512年の壬申約条(じんしんやくじょう)によって国交は再開されたものの、条約の内容は極めて厳しく、三浦における日本人の居住は禁止された。さらに開港地は薺浦(乃而浦)の一港のみに制限され、のちに富山浦のみに限定されることとなった。この結果、塩浦は日本人居留地としての歴史に幕を閉じ、廃港となった。塩浦の歴史は、中世の東アジア海域における互恵的な通交関係と、国家による管理(主権の確立)の強化という摩擦を象徴する事例である。