三浦の乱 (さんぽのらん)
【概説】
1510年、李氏朝鮮の南部に設けられた三浦(乃而浦、富山浦、塩浦)に居住する日本人が、朝鮮側の厳しい統制に反発して起こした大規模な暴動。対馬の宗氏も支援して一時は猛威を振るったが朝鮮軍に鎮圧され、活発だった日朝貿易が大きく制限される契機となった。
背景:李氏朝鮮の交隣政策と「三浦」の設置
14世紀末から15世紀にかけて、朝鮮半島沿岸は前期倭寇の脅威に晒されていた。1392年に建国された李氏朝鮮は、倭寇に対する強硬策(応永の外寇など)をとる一方で、平和的な通交・貿易を求める日本の商人や有力者には懐柔策を用いる「交隣政策」を採用した。その一環として、15世紀初頭に朝鮮半島の南岸に乃而浦(ないじほ・現在の鎮海)、富山浦(ふざんほ・現在の釜山)、塩浦(えんぽ・現在の蔚山)の三つの港を開放した。これらが「三浦(さんぽ)」と呼ばれる開港場である。
朝鮮側は、対馬の島主である宗氏(そうし)に通交の統制権を与え、三浦に「倭館」を設けて日本人の自由な滞在と交易を許可した。これにより、貿易の利益を求めて多くの日本人が三浦に定住するようになり、彼らは「恒居倭(こうきょわ)」と呼ばれた。
原因:恒居倭の増加と朝鮮側の統制強化
日朝貿易の進展に伴い、三浦に定住する日本人の数は急増し、15世紀末には数千人規模に達した。恒居倭の中には、朝鮮の法や統制を無視して密貿易を行ったり、現地の朝鮮人と衝突を起こしたりする者も少なくなかった。また、日本人を接待・保護するための費用は朝鮮側の国家財政に重くのしかかっていた。
こうした事態を重く見た朝鮮王朝(当時の国王は中宗)は、日本人の不法行為を取り締まるため、三浦における検問の強化や、貿易量の制限、さらに恒居倭の居住地外への移動禁止など、厳しい統制策を次々と打ち出した。既得権益を脅かされた恒居倭たちはこれに激しく反発し、両者の間に生じた摩擦は次第に修復不可能なレベルへと達していった。
経過:大規模な蜂起と鎮圧
1510年(永正7年)、朝鮮側の強硬な姿勢に耐えかねた三浦の恒居倭たちは、ついに一斉に蜂起した。これが三浦の乱である。暴動は三つの港で同時に発生し、貿易の実権を握っていた対馬の宗氏も大軍を派遣して恒居倭を支援したため、数千人規模の反乱軍となった。反乱軍は各地の軍事拠点を襲撃し、朝鮮側の役人や軍勢を次々と打ち破って、一時は慶尚道一帯を混乱に陥れた。
しかし、朝鮮王朝もすぐさま中央から精鋭部隊を派遣して本格的な討伐に乗り出した。装備や動員力で圧倒的に優る朝鮮軍の反撃を前に反乱軍は次第に劣勢となり、多くの戦死者を出し、生き残った者たちも対馬へと敗走した。こうして、暴動は発生から約半月で鎮圧された。
結果と歴史的意義:日朝関係の転換と「壬申約条」
三浦の乱の結果、朝鮮側は三浦の倭館を閉鎖し、日本との通交を一時完全に断絶した。しかし、経済的に朝鮮との貿易に依存していた対馬の宗氏や、日本の物資(銅や硫黄など)を必要とする朝鮮側の思惑もあり、室町幕府の仲介を経て1512年に壬申約条(じんしんやくじょう)が結ばれた。
この条約により国交は回復したものの、開港場は乃而浦の一港のみに制限され、恒居倭の定住も禁止された。さらに宗氏が派遣する歳遣船(さいけんせん)の数も従来の半数へと大幅に削減されるなど、日本側にとって極めて厳しい条件が課せられた。
三浦の乱は、15世紀の比較的自由で活発だった日朝関係に終止符を打ち、朝鮮側が厳格な管理貿易へと舵を切る歴史的な転換点となった。また、朝鮮王朝において国防体制を見直す契機となり、後に政治・軍事の最高機関となる「備辺司(びへんし)」が臨時に設置される端緒にもなった重要な事件である。