富山浦

日朝貿易において日本人の居留が認められた「三浦」の一つで、現在の釜山にあたる港はどこか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
釜山広域市(Wikipedia)

富山浦 (ふざんぽ)

15世紀初頭〜1510年

【概説】
室町時代の日朝貿易において、朝鮮王朝が日本人の居留と交易を公認した「三浦(さんぽ)」と総称される3つの港の一つ。現在の韓国・釜山広域市に位置し、対馬の宗氏をはじめとする日本商人の主要な活動拠点となった交易の要衝。

三浦体制の成立と富山浦の役割

1392年に成立した朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、東アジア海域を脅かしていた倭寇(前期倭寇)の禁圧と、日本(室町幕府や西国守護、対馬の宗氏など)との平和的な近隣関係の構築を目指す「交隣外交」を基本方針とした。その一環として、朝鮮王朝は日本からの使送船(交易船)の来航地を限定する統制策を採った。

1407年、朝鮮王朝は日本船の入港地を富山浦(釜山)と乃而浦(ないじほ/薺浦:現在の慶尚南道昌原市)の2港に限定。さらに1426年には塩浦(えんぽ:現在の蔚山広域市)を加えた「三浦」の体制が確立された。これらの港には日本人の居住区である「倭館(三浦倭館)」が設置され、交易や外交実務が行われた。なかでも富山浦は地理的に対馬に最も近く、対馬島主である宗氏の管轄下において、日朝貿易の最大の拠点として機能した。

居留民の増加と「三浦の乱」による破綻

15世紀を通じて日朝貿易は活発に行われ、日本からは銅や硫黄、東南アジア産の香料などが輸出され、朝鮮からは綿布や大蔵経(一切経)などが輸入された。これにともない、富山浦をはじめとする三浦には、交易や生活のために定住する日本人(恒遣倭などと呼ばれる)が急増し、最盛期には三浦全体で数千人に達した。

しかし、居留民の増加は、朝鮮王朝側による密貿易の取締りや徴税強化、治安維持をめぐる摩擦を生むこととなった。16世紀に入り、朝鮮王朝(中宗代)が統制と締め付けをいっそう厳しくすると、これに反発した三浦の日本居留民は、1510年に対馬の宗盛順の支援を得て武装蜂起を起こした。これが三浦の乱である。この反乱は朝鮮軍によって鎮圧され、三浦の倭館は閉鎖、日朝間の公式な国交は一時断絶した。これにより、約1世紀にわたって機能した富山浦を含む三浦体制は事実上の崩壊を迎えた。

その後の変遷と現代へのつながり

三浦の乱の後、対馬の宗氏は困窮し、朝鮮王朝に国交再開を嘆願した。その結果、1512年の「壬申約条」によって乃而浦のみでの交易再開が認められたが、往来する船の数や格式は厳しく制限された。その後、1547年の「丁未約条」によって、交易港は再び対馬に最も近い富山浦一港のみへと縮小・限定されることとなった。

豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって日朝関係は決定的な破綻を迎えるが、江戸時代に徳川家康が国交を回復(己酉約条)すると、再び釜山に「釜山倭館(のちに草梁倭館へ移転)」が設置され、対馬藩を通じた交易と外交が幕末まで継続された。中世の富山浦に始まる日本人居留地の歴史は、近世の倭館へと引き継がれ、今日の国際港湾都市である釜山の歴史的基盤となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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