皇族将軍(親王将軍・宮将軍) (こうぞくしょうぐん(しんのうしょうぐん・みやしょうぐん)
【概説】
鎌倉幕府において、第6代宗尊親王から第9代守邦親王まで、天皇家(皇室)から迎えられた将軍の総称。政治的実権を持たず、北条氏による執権政治(得宗専制)の正当性を担保するための「権威」として擁立された傀儡将軍。
摂家将軍の排斥と皇族将軍の誕生
源頼朝の直系である源氏将軍が3代実朝の暗殺によって断絶した後、鎌倉幕府は摂関家から藤原頼経・頼嗣を「摂家将軍(藤原将軍)」として迎えていた。しかし、成長した摂家将軍が幕府内の反北条勢力と結びつき、実権を握る北条氏(得宗家)を脅かす存在となった。これに対し、5代執権北条時頼は1252年、第5代将軍藤原頼嗣を廃して京都へ送還した。
時頼は、これ以上の政治的野心を持つ将軍の台頭を防ぎつつ、幕府の権威をより強固なものにするため、皇室からの将軍擁立を画策した。後嵯峨上皇との協調関係のもと、上皇の第一皇子である宗尊(むねたか)親王を第6代将軍として迎えることに成功した。これが皇族将軍(親王将軍、または宮将軍とも呼ばれる)の始まりである。
得宗専制体制における「傀儡」としての存在
宗尊親王以降、唯康(これやす)親王、久明(ひさあき)親王、そして最後の守邦(もりくに)親王へと計4代にわたって皇族将軍が続いた。彼らはみな幼少の身で鎌倉に迎えられ、名目上の主君として平穏な日々を過ごしたが、政治的実権は一切与えられなかった。実際の政務は執権や連署、そして北条得宗家の私的会議である「寄合」で決定されていた。
皇族将軍たちは、成人して政治的な自立心や独自の権力基盤を持ち始めると、北条氏によって謀叛の嫌疑などをかけられ、強制的に将軍職を解かれて京都へ送り返された。例えば、初代の宗尊親王は1266年に謀叛の風聞を理由に廃位され、第7代の唯康親王は、幕府を二分した「霜月騒動」ののち、北条貞時によって京へ送還されている。このように、将軍の交代は完全に北条氏の都合によってコントロールされていた。
幕府の「寄合」政治の完成と御恩・奉公の変質
皇族将軍の擁立は、鎌倉幕府を形式的に「朝廷公認の東国政権」として盤石なものにした。天皇家という日本最高の権威を鎌倉に留め置くことで、御家人たちの忠誠心を維持する狙いがあった。これによって北条氏は、自らが「将軍の補佐役(執権)」であるという大義名分を掲げつつ、実質的な独裁体制である得宗専制体制を確立・完成させることができた。
しかし、これは同時に、幕府の根本原則であった「将軍と御家人との個人的な主従関係(御恩と奉公)」を形骸化させることになった。御家人たちは実権のない皇族将軍ではなく、実質的な支配者である北条氏(得宗家)やその被官である「御内人」に屈従せざるを得なくなり、これが御家人たちの間に強い不満を蓄積させた。結果として、元寇後の社会不安と相まって北条氏への反発は頂点に達し、1333年、新田義貞らの鎌倉攻略により幕府は滅亡、最後の将軍であった守邦親王も辞任して出家することとなった。