関東管領

鎌倉公方を補佐する役職として置かれ、代々上杉氏が世襲した鎌倉府のナンバー2の役職を何というか?
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★★★

関東管領 (かんとうかんれい)

1349年 – 1590年

【概説】
室町時代に関東の統治機関である鎌倉府に置かれ、長官である鎌倉公方を補佐したナンバー2の役職。代々上杉氏が世襲して東国支配の要を担ったが、のちに幕府と結びついて鎌倉公方と激しく対立し、東国における長期の戦乱を招く要因となった。

鎌倉府の成立と関東管領の起源

建武の新政崩壊後、足利尊氏は室町幕府を開く一方で、東国支配の拠点として鎌倉府を設置した。正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏の次男である足利基氏が初代鎌倉公方(関東公方)として下向した際、これを補佐するために置かれた関東執事が関東管領の起源である。

初期には高師冬などが任じられたが、尊氏の母方の親族である上杉憲顕が就任して以降、上杉氏が有力となった。当初は「執事」と呼ばれていたが、京都の幕府で将軍を補佐する執事が「管領」と呼ばれるようになると、これに倣って関東でも「関東管領」という呼称が定着していった。

上杉氏の台頭と世襲の確立

関東管領職は、観応の擾乱などの政治的混乱を経て、次第に上杉氏の独占状態となった。上杉氏は一族の中で山内、犬懸、扇谷、宅間などの諸家に分かれて勢力を争った。

応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱において、前関東管領であった犬懸家の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反乱を起こし、敗死した。この結果、犬懸家は没落し、以後は山内上杉家が関東管領職を世襲し、扇谷上杉家がこれを支えるという体制が確立した。上杉氏は関東一円に広大な所領と家臣団を築き、実質的な関東の支配者として強大な権力を握るに至った。

鎌倉公方との対立と東国の戦乱

関東管領の歴史的意義は、単なる鎌倉公方の補佐役にとどまらず、京都の室町幕府(将軍)と直結して鎌倉公方を監視・牽制する役割を担っていた点にある。鎌倉公方は次第に幕府からの独立傾向を強め、将軍職をうかがうなど対立を深めていったため、幕府の意向を受けた関東管領と鎌倉公方の間には必然的に亀裂が生じた。

永享10年(1438年)、第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実が衝突した永享の乱では、幕府軍の支援を受けた上杉側が勝利し、持氏を自害に追い込んだ。しかしその後、持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、享徳3年(1454年)に関東管領の上杉憲忠(憲実の子)を暗殺する。これを契機に享徳の乱が勃発し、成氏は古河に逃れて古河公方となり、関東管領は五十子(いらこ)を拠点に対峙した。この乱は約30年にも及び、応仁の乱に先駆けて東国をいち早く戦国時代へと突入させた。

戦国時代における没落と名跡の継承

戦国時代に入ると、山内上杉家と扇谷上杉家との間で内部抗争(長享の乱)が激化し、関東管領の権威は大きく失墜した。この隙を突いて伊豆から関東へ進出してきたのが、伊勢宗瑞(北条早雲)に始まる後北条氏である。

両上杉氏は一時休戦して後北条氏に対抗したものの、天文15年(1546年)の河越夜戦(河越城の戦い)で大敗を喫し、扇谷上杉家は滅亡、山内上杉家も関東を追われた。

越後国へ逃れた関東管領の上杉憲政は、永禄4年(1561年)に長尾景虎(のちの上杉謙信)に関東管領職と上杉の家督、系図などを譲り渡した。謙信はこれを大義名分として度々関東へ出兵したが、後北条氏の勢力を完全に駆逐することはできなかった。その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡し、上杉景勝が会津へ転封されたことで、関東の統治機構としての関東管領職は名実ともにその歴史的役割を終えた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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