上杉氏
【概説】
室町時代において、鎌倉府の関東管領を世襲し、東国支配の要を担った有力武家。足利尊氏の母方の実家として京都の室町幕府と強い結びつきを持ち、自立傾向を強める鎌倉公方と激しく対立した。戦国期には内紛や新興勢力の台頭により関東を追われたが、越後の長尾氏が名跡を継ぎ、戦国大名として存続した。
足利氏の外戚としての台頭
上杉氏は、もともと藤原北家勧修寺流に属する京都の公家であったが、鎌倉時代後期に武家として下向し、相模国の上杉荘(現在の神奈川県綾瀬市周辺)を領したことから上杉氏を称した。この一族の歴史的地位を決定づけたのは、足利氏との強力な外戚関係である。足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子が上杉頼重の娘であったため、上杉氏は尊氏の挙兵に際して多大な貢献を果たし、建武政権や室町幕府の創出において中核的な役割を担うこととなった。
関東管領の世襲と一族の分立
室町幕府が成立すると、幕府は東国十ヶ国を統治するために鎌倉府を設置し、足利基氏の子孫が鎌倉公方として君臨した。この鎌倉公方を補佐する最高位の役職が関東管領であり、初代の斯波家長などを経て、上杉憲顕の就任以降は上杉氏がこの職を世襲するようになった。
上杉氏は次第に血統や居館の所在地によって、山内(やまのうち)、犬懸(いぬがけ)、扇谷(おうぎがやつ)、宅間(たくま)の四家に分立した。このうち、宅間上杉家は早々に衰退し、犬懸上杉家も1416年の「上杉禅秀の乱」で没落したため、室町時代中期以降は山内上杉家が関東管領を独占し、それを扇谷上杉家が支えるという体制が定着した。
鎌倉公方との激しい対立
室町時代の東国政治史は、実質的に「鎌倉公方と関東管領(上杉氏)の抗争史」と言っても過言ではない。鎌倉公方は代を重ねるごとに京都の将軍権力からの独立を目指すようになり、幾度も反乱の兆しを見せた。これに対し、足利氏の外戚であり幕府との結びつきが強い上杉氏は、将軍の意を受けて鎌倉公方を牽制するバランサーとしての役割を求められた。
両者の対立は次第に先鋭化し、1438年(永享10年)には鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から永享の乱が勃発した。この乱で幕府の支援を受けた上杉氏は持氏を滅ぼし、関東における実質的な覇権を確固たるものにした。
享徳の乱と戦国大名への変質
しかし、1454年(享徳3年)に持氏の遺児である新公方・足利成氏が、関東管領・上杉憲忠を暗殺するという事件を起こす。これにより享徳の乱が勃発し、関東地方は京都の応仁の乱に先駆けて事実上の戦国時代に突入した。乱の収束後も、上杉氏は内部において山内家と扇谷家が関東の覇権を激しく争う「長享の乱」を引き起こし、深刻な共倒れ状態に陥った。
この上杉氏の弱体化に乗じて台頭したのが、伊豆から進出した北条早雲(伊勢宗瑞)を祖とする後北条氏である。両上杉氏は後北条氏の侵攻によって次第に関東の領国を奪われ、山内上杉憲政は1552年(天文21年)に越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとへ逃れた。その後、憲政から関東管領職と上杉氏の家督を譲られた景虎によって、上杉氏は戦国大名として新たな命脈を保ち、江戸時代には米沢藩主として幕末まで存続することとなる。