足利義教 (あしかがよしのり)
【概説】
室町幕府の第6代将軍。くじ引きによって将軍に選出されたという異例の経歴を持ち、将軍権力の強化を目指して有力大名や寺社勢力を次々と弾圧・処罰する「万人恐怖」の専制政治を行った。
しかし、その強権的な手法は守護大名の強い反発を招き、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで、結果的に幕府権威が失墜する転換点を作ることとなった。
「くじ引き」による異例の将軍選出
足利義教は、室町幕府の最盛期を築いた第3代将軍・足利義満の男子として生まれた。しかし、将軍家の慣例に従い幼くして仏門に入り、青蓮院門跡となって「義円(ぎえん)」と名乗った。さらに天台座主という当時の仏教界における最高権威にまで上り詰めていた。
1428年、第4代将軍であった兄の足利義持が、後継者を指名しないまま危篤に陥った。管領の畠山満家ら幕府の宿老たちは合議の末、石清水八幡宮において神意を問う「くじ引き」によって次期将軍を決定することとした。このくじ引きで見事に選ばれた義円は還俗し、「義教」と名を改めて第6代将軍に就任した。この特異な経緯から「籤引き将軍」とも称されるが、これは単なる偶然に任せた決定ではなく、「神意によって選出された」という強力な宗教的権威を将軍職に付与する意味合いが含まれていた。
将軍権力の絶対化と「万人恐怖」の政治
義教の政治目標は、有力守護大名の合議制によって運営されていた当時の幕府体制を打破し、父・義満の時代の絶対的な将軍権力を取り戻すことであった。彼は自ら幕政を主導し、大名家の家督相続問題などに積極的に介入し始めた。
大内氏や斯波氏、畠山氏など有力守護の家督問題に容喙し、意に沿わない当主をすげ替えるなどして、大名たちを強引に将軍の統制下に置こうとした。さらに、関東で独自の権力を誇り幕府から独立する動きを見せていた鎌倉公方の足利持氏と激しく対立した。義教は1438年の永享の乱で持氏を討伐し、続く結城合戦でその残党を平定して、関東地方をも幕府の直接支配下に組み込むことに成功した。
また、かつて自身が頂点に立っていた比叡山延暦寺とも激しく対立し、1435年には比叡山を包囲して根本中堂を焼き討ちにするという強硬策に出た。義教の冷酷な処罰は武士や僧侶にとどまらず、些細な理由で公家や側近、庶民にまで及び、処刑や流罪、所領没収が日常茶飯事であった。皇族の伏見宮貞成親王が自身の日記『看聞日記』において「万人恐怖」と記したように、当時の社会は将軍の予測不可能な恐怖政治に震え上がっていた。
嘉吉の乱と幕府権威の失墜
義教の専制政治は、一時的に室町幕府の将軍権力を絶頂に導いたかに見えたが、同時に諸大名や社会各層の間に極度の緊張と鬱屈した反発を醸成していた。
1441年(嘉吉元年)、将軍の過酷な粛清の矛先が自らに向くことを恐れた有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)は、結城合戦の祝勝の宴と称して義教を京都の自邸に招き、酒宴の席で義教を暗殺するという暴挙に出た(嘉吉の乱)。最高権力者である将軍が家臣の謀反によってあっけなく殺害されるという事態は、当時の人々に極めて大きな衝撃を与えた。
義教の死後、幕府は赤松氏を討伐したものの、幼少の足利義勝や足利義政が将軍職を継いだため、義教が強引に築き上げた絶対的な将軍権力は瞬く間に瓦解した。再び有力守護大名による合議政治が復活し、幕府の統制力は急速に失われていく。足利義教の暗殺は、室町幕府の没落を決定づけ、やがて日本中を巻き込む応仁の乱、そして戦国時代へと向かう歴史の大きな転換点となったのである。