六斎市

鎌倉時代の「三斎市」から発展し、室町時代以降に各地で月に6回開かれるようになった定期市を何というか?
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六斎市 (ろくさいいち)

【概説】
室町時代以降、月に6回、決まった日に開かれるようになった定期市。鎌倉時代の三斎市から発展したものであり、農業生産力の向上や貨幣経済の浸透を背景に全国各地へ普及し、中世から近世にかけての流通経済の重要な拠点となった。

中世における定期市の発展と六斎市の誕生

日本の中世社会において、商品の交換・売買が行われる定期市は、流通経済の基盤として極めて重要な役割を果たした。鎌倉時代には月に3回開かれる三斎市(さんさいいち)が一般的であったが、室町時代に入るとこれがさらに発展し、月に6回開催される六斎市が全国各地に登場するようになる。この背景には、畿内周辺を中心とする二毛作の普及や水車・肥料(草木灰など)の利用といった農業生産力の飛躍的な向上がある。農村で生み出された余剰生産物や、農民の手による手工業品が頻繁に取引されるようになり、月に3回の市では膨らむ需要を満たしきれなくなったのである。また、宋銭や明銭といった渡来銭が大量に流通し、現物交換ではなく貨幣による取引が広く浸透したことも、市の開催日数を倍増させる大きな原動力となった。

六斎市の仕組みと市場の景観

六斎市は、「一・六の市(1日、6日、11日、16日、21日、26日)」や「四・九の市」といったように、毎月一定の日付に開かれた。市が立つ場所は、寺社の門前や交通の要衝、河川の渡し場などが選ばれ、そこは「市庭(いちば)」と呼ばれた。市の日には、周辺の農民が農産物や薪炭を持ち寄るだけでなく、連雀商人(れんじゃくあきんど)と呼ばれる行商人や、特定の座に属する手工業者たちが集まり、日用品や農具、海産物などを販売した。また、中世の市庭は「無縁の場」としての性質を持ち、神仏や領主の庇護のもとで市の平和が保たれ、喧嘩や借金の取り立て、盗難品の捜索などが禁じられていた点も重要である。このような安全な取引環境が保証されたからこそ、六斎市は身分を問わず多くの人を集め、活況を呈したのである。

戦国大名の政策と市場町への発展

戦国時代に突入すると、六斎市は各地の戦国大名によって積極的に保護・統制されるようになる。大名たちは自らの領国経済を豊かにするため、城下町や主要な交通路沿いに六斎市を誘致し、流通網の掌握を図った。中には、特定の商人が持つ座の特権や関銭を免除して自由な取引を促す楽市・楽座の政策と結びつくケースも見られた。六斎市が恒常的に開かれるようになると、商人や職人が市の周辺に定住しはじめ、次第に市場町(いちばまち)と呼ばれる都市的な集落へと成長していった。現在の日本各地に残る「四日市」や「八日市」、「廿日市」といった地名は、かつてこの地で六斎市などの定期市が盛んに開かれていた名残である。

近世社会への移行と六斎市の変容

江戸時代に入り、兵農分離が完成して城下町が整備されると、商工業の中心は都市へと移り、常設の店舗(見世棚)を構えて商売を行う形態が一般化していく。これにより、都市部や主要な街道沿いでは定期市としての六斎市の重要性は相対的に低下していった。しかし、地方の農村部においては、依然として六斎市が農産物の換金や日用品調達の場として存続し続けた。江戸幕府や諸藩も、農村の秩序維持や流通統制の観点から六斎市を公認し、特定の産物を取引する市(牛馬市や絹市など)へと特化していくものも現れた。このように六斎市は、中世の自給自足的経済から近世の本格的な商品流通経済へと橋渡しをする、日本経済史上極めて重要な歴史的役割を果たしたと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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