王建 (おうけん)
【概説】
10世紀前半に朝鮮半島で高麗を建国し、分立していた後三国を統一した初代国王(太祖)。その執政期は日本の平安時代中期にあたり、日本に対して公式に通交を求めたが拒絶された。東アジアの国際秩序が大きく再編される契機を作った歴史的重要人物である。
高麗の建国と朝鮮半島の再統一
王建は、松岳(現在の開城)の有力な海上交易豪族の出身である。当時、新羅の統治力が衰退した朝鮮半島は、後百済や後高句麗(のちに泰封)が割拠する後三国時代と呼ばれる激しい混迷期を迎えていた。王建は泰封の建国者である弓裔に仕えて水軍を率いるなどして頭角を現し、918年に部下に推戴されて弓裔を追放、高麗(こうらい)を建国して自ら即位した。
その後、王建は935年に国力が衰えた新羅を平和裏に併合し、翌936年には後百済を滅ぼして朝鮮半島の統一を達成した。これは、907年の唐の滅亡、926年の渤海の滅亡といった、東アジア規模での動乱と東部ユーラシア秩序の崩壊期における、新たな画期的政権の誕生を意味していた。
平安日本への通交交渉と外交の変容
朝鮮半島を統一した高麗は、国内の安定と自国の国際的地位の向上を図るため、周辺諸国との外交交渉を模索した。日本(平安朝廷)に対しては、937年(承平7年)に高麗の使節が対馬に到来し、通交を求める牒(国書)を提出している。当時の日本は平安時代中期に位置し、すでに894年に遣唐使の派遣を停止するなど、対外的な国家間交渉に対して極めて消極的な方針を採用していた。
日本の朝廷は、高麗からの国書に「無礼」な文言があることや、前代の新羅・唐との先例に合致しないことなどを理由に、この通交要求を公式に拒絶した。しかし、公的交渉の拒絶にもかかわらず、九州の大宰府などを窓口とした高麗や宋(宋代)の商人による私的な交易活動はその後も活発に行われ、日本には高麗版大蔵経などの仏教文化や大陸の貴重な文物が流入し続けた。