高麗

936年、衰退した新羅に代わって王建が朝鮮半島を再統一して建てた国は何か。
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高麗 (こうらい)

918年 – 1392年

【概説】
918年に王建が建国し、936年に朝鮮半島を再統一した国家。都は開城。日本とは公的な国交は結ばなかったものの、民間貿易を通じた交流が行われる一方、のちに元の属国として元寇に動員され、末期には倭寇の襲撃に苦しめられた。

高麗の建国と東アジア情勢

10世紀初頭、朝鮮半島では新羅の衰退に伴い、後高句麗や後百済が並び立つ後三国時代を迎えていた。918年、後高句麗の武将であった王建(太祖)はクーデターを起こして新国家「高麗」を建国し、現在の開城を都に定めた。その後、新羅を降伏させ、936年には後百済を滅ぼして朝鮮半島の再統一を果たした。高麗は中国の宋と通好して先進文化を受容しつつ、北方の契丹(遼)や女真(金)といった強力な北方民族の脅威に対しては、時に対立し、時に臣従するという柔軟な外交を展開して国家の存立を維持した。また、仏教を国教として手厚く保護し、『高麗版大蔵経』の編纂や高麗青磁など、高度で独自の文化を花開かせた。

平安時代の日本と高麗の交流

日本史における高麗との関係は、平安時代中期から始まる。当時の日本は遣唐使の廃止以降、国家間の正式な外交関係(公貿易)を行わない方針をとっていたため、高麗とも正式な国交は結ばれなかった。しかし、大宰府などを窓口として、高麗の商人が越前国や筑前国に来航し、私貿易(日麗貿易)が活発に行われた。日本からは水銀や硫黄などが輸出され、高麗からは陶磁器、経典、朝鮮人参などがもたらされた。特に高麗で印刷された大蔵経は、日本の仏教界にも大きな影響を与えた。

また、1019年(寛仁3年)に満州方面の女真族が対馬・壱岐や北九州を襲撃した刀伊の入寇では、日本から撤退する女真族の船団を高麗の水軍が撃退し、拉致されていた数百人の日本人を保護して日本に送還するという出来事もあった。この事件は、国交がない状態でありながらも、東アジア海域における危機において両国が間接的に関わりを持った事例として重要である。

モンゴルの属国化と元寇(蒙古襲来)

13世紀に入ると、アジア全域を席巻したモンゴル帝国が高麗にも侵攻を開始した。当時の高麗は武人政権(崔氏政権)の支配下にあり、都を江華島に移して数十年にわたり頑強に抵抗した。しかし、国土は激しく荒廃し、最終的には1259年にモンゴルに降伏した(その後も一部の軍勢が「三別抄の乱」を起こして抵抗を続けたが鎮圧された)。

モンゴル帝国(のちの元)の属国となった高麗は、フビライ・ハンの日本侵攻計画において、莫大な軍船の建造や兵糧の負担、さらには兵力の供出を強要された。1274年の文永の役および1281年の弘安の役において、高麗軍は元軍(東路軍)の主力の一翼を担い、対馬・壱岐や北九州に攻め寄せた。これにより、長らく民間レベルで平和的な交流が続いていた日麗関係は、大きな転換点を迎えることとなった。

倭寇の跳梁と高麗の滅亡

14世紀後半になると、元の衰退とともに高麗は独立を回復しようと試みたが、折しも日本では南北朝の内乱期にあたり、九州や瀬戸内海沿岸の土豪や海民を中心とする海賊集団、いわゆる倭寇(前期倭寇)が朝鮮半島沿岸を猛烈に襲撃し始めた。倭寇は米などの食糧や人間を略奪し、高麗の国家財政や地方の治安に致命的な打撃を与えた。

高麗政府は日本(室町幕府や九州探題)に対して倭寇の取り締まりを度々要請したが、日本の内乱状態により実効的な対策は遅々として進まなかった。こうした国難の中で、倭寇や北方の紅巾軍の撃退で武功を挙げた新興武将の李成桂が台頭した。1392年、李成桂は王位を簒奪して新王朝(朝鮮王朝/李氏朝鮮)を建国し、これにより約470年続いた高麗は歴史から姿を消した。

歴史物語朝鮮半島 (朝日選書 806)

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朝鮮の歴史: 先史から現代

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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