女真(族) (じょしんぞく)
【概説】
中国東北地方(満洲)の松花江流域から極東ロシアにかけて居住していたツングース系の半農半猟民族。11世紀初頭に「刀伊(とい)」として九州北部を急襲したほか、12世紀には「金」を、17世紀には「後金(後の清)」を建国して中国本土を支配した。日本史においては、中世前夜における対外的な危機の象徴として、また東アジアの政情を激変させた主役として知られる。
刀伊の入寇――日本史における女真族の衝撃
日本史において女真族の名が最初に刻まれるのは、平安時代中期の1019年(寛仁3年)に起きた刀伊の入寇(といのにゅうこう)である。当時、高麗(朝鮮半島)の東北に割拠していた女真族(東女真)の一派が、50隻余りの船団を率いて突如として対馬・壱岐、さらには筑前・肥前といった九州北部沿岸を襲撃した。
この未曾有の事態に対し、朝廷の命を待たずに防衛戦を指揮したのが、大宰権帥(だざいのごんのそつ)であった藤原隆家である。隆家は現地の武士たちを組織して女真族の軍勢を撃退することに成功した。この事件は、平安貴族たちに大陸からの「外寇」の恐怖を植え付けると同時に、地方の武士(軍事貴族)が国家防衛において極めて重要な役割を果たす存在であることを証明し、後の武士の台頭を促す歴史的契機となった。
金の建国と東アジア秩序の激変
12世紀に入ると、女真族は統一の機運を迎え、完顔部(ワンヤンぶ)の首長である完顔阿骨打(太祖)のもとで1115年に金を建国した。金は瞬く間に勢力を拡大し、それまで東アジアの覇権を握っていた遼(契丹)を滅ぼし、さらに南進して北宋を滅ぼした(靖康の変)。これにより宋は江南へと逃れて南宋となり、金は華北(中国北部)を支配する巨大帝国となった。
この東アジアの劇的な政情変化は、日本にも大きな影響を与えた。当時、院政期から平氏政権期へと移行しつつあった日本は、南宋との間で日宋貿易を盛んに行っていた。宋が南方に押し込められ、北方に強力な女真族の「金」が君臨するという国際情勢の情報は、商人や留学僧を介して日本にもたらされ、平清盛らの対外外交政策や、当時の知識人の世界観(三国世界観)の変容に影響を与えることとなった。