荒神谷遺跡(神庭荒神谷遺跡)

重要度
★★

荒神谷遺跡(神庭荒神谷遺跡) (こうじんだにいせき/かんばこうじんだにいせき)

1984年発見

【概説】
島根県出雲市(旧斐川町)に所在する、弥生時代の中期から後期にかけての遺跡。1984年の発掘調査において、それまでの日本全国の累計出土数を上回る358本もの銅剣が一度に出土し、従来の日本古代史の常識を覆した画期的な遺跡である。

常識を覆した青銅器の大量出土とその特異性

1984年、広域農道の建設に伴う事前調査において、荒神谷遺跡から計358本もの銅剣が整然と並べられた状態で発見された。それまでに日本全国で確認されていた銅剣の総数が約300本であったため、一箇所からこれほどの量がまとまって出土したことは、考古学界のみならず日本中に大きな衝撃を与えた。出土した銅剣は「中細形d類」と呼ばれる様式に統一されており、その規格の高さから、一定の規格のもとで一括して生産されたものと考えられている。

さらに翌1985年の調査では、銅剣が出土した場所からわずか数メートル離れた斜面から、銅鐸6個銅矛16本が同時に出土した。当時、青銅器の分布において「銅鐸は近畿地方」「銅矛・銅剣は九州地方」という地域的な文化圏の住み分けが存在するというのが通説であった。しかし、荒神谷遺跡における三種の青銅器の同時出土は、そうした二大文化圏の境界や交流のあり方を再考させる決定的な契機となった。なお、これらの出土品計380点は、一括して国の国宝に指定されている。

「古代出雲」の歴史的実像と政治勢力の再評価

荒神谷遺跡における大量の青銅器出土は、文献史学における『古事記』や『日本書紀』に描かれる「出雲神話」の背景に、実際に強力な政治勢力が存在したことを裏付ける強力な物証となった。これほどの青銅器を所有・埋納できたということは、弥生時代の出雲地方に、畿内や九州の強力な勢力に対抗しうる、あるいはそれらと独自のネットワークを結んだ高度な政治的・宗教的共同体(クニ)が存在していたことを示している。

また、1996年には同遺跡から東に約3キロメートル離れた加茂岩倉遺跡から、全国最多となる39個の銅鐸が発見された。荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の相次ぐ発見により、弥生時代における出雲が、青銅器を用いた大規模な祭祀の中心地であったことが確実視されるようになった。これは、大和朝廷(ヤマト政権)の一元的な歴史観にとどまらない、複数の中核が存在した列島規模の地域国家形成期を示す重要な指標となっている。

大量埋納の意図をめぐる議論

これほど大量の青銅器が、なぜ山中の斜面に整然と埋められていたのかという理由については、現在も複数の説が存在する。有力な説として、集落全体の豊穣や安全を祈る共同体の祭祀(地霊への奉納)のために埋納されたとする「祭祀・実用説」がある。一方で、弥生時代後期から古墳時代への移行期にかけて、社会の統合が進み大和勢力などの外圧が高まるなかで、神聖な青銅器を他勢力奪取から防ぐために一時的に隠匿したとする「隠匿説」もある。

いずれの説にせよ、金属器の所有が権力の象徴であった弥生時代において、これらを消費あるいは退蔵させる行為は、当時の社会秩序や宗教観に深く根ざした重大な画期であったと考えられている。

弥生時代の考古学 (シンポジウム日本の考古学 3)

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A.