土地税

戸籍の崩壊に伴い、人頭税に代わって「名(名田)」などの田地の面積を基準として課されるようになった税の方式を何というか。
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
地方税(Wikipedia)

土地税

10世紀〜

【概説】
律令制的な人頭税(戸籍に基づく課税)に代わり、平安中期以降に田地(名田)の面積を基準として課されるようになった租税。国司が徴税を請け負う王朝国家体制における、国家財政および地方統治の根幹をなす基本財源。

人頭税から土地税への歴史的転換

奈良時代から平安初期にかけての律令制(公地公民制)下では、戸籍に登録された「人(正丁など)」を対象に、租・庸・調や雑徭といった税が課されていた(人頭税支配)。しかし、9世紀から10世紀にかけて、偽籍(税を逃れるために戸籍上、女性と偽る行為)や浮浪・逃亡が横行し、戸籍に基づく徴税システムは完全に破綻した。

この危機に対し、朝廷は10世紀初頭の「延喜の荘園整理令」や意見封事などを経て、個々の人身を把握する支配を断念。代わって、実際に耕作されている土地(田地)を把握し、そこから徴税する方針へと180度の転換を図った。これにより、土地を媒介とした新たな支配・課税システムが成立することとなった。

名田の成立と新たな税体系

受領(任国に赴任する国司の筆頭者)は、国衙領の公田を名(みょう)または名田(みょうでん)と呼ばれる課税単位に再編成した。そして、この名田の経営と納税を請け負う有力農民を田堵(たと)(のちの負名)に任命し、名田の面積に応じて税を割り振る仕組みをつくった。

この土地税体系において、従来の「租」にあたる主要税は官物(かんもつ)へと統合され、従来の「庸・調」や各種の労役(雑徭)は臨時雑役(りんじぞうやく)として土地面積に応じて課されるようになった。受領は徴収した官物の一部を中央(朝廷)へ送り、残りを自身の経済的基盤とした。

王朝国家体制と中世への展望

この土地税への移行は、日本史における「古代律令国家」から「王朝国家」への変質を決定づけた。国家は個々の人民を細かく管理することを放棄し、土地と受領を通じた間接的な支配へと移行したのである。

その後、平安後期から中世にかけて寄進地系荘園が拡大すると、この土地税のシステムは公領(国衙領)だけでなく荘園内にも適用され、荘園公領制における「年貢・公事・夫役」の原型となった。土地税の確立は、日本における中世封建社会の成立を経済面から準備した重要な転換点であったといえる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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