宋銭 (そうせん)
【概説】
日宋貿易などを通じて中国(宋)から日本へ大量に輸入された銅銭。12世紀頃から日本国内で広く流通し、中世日本における貨幣経済の発達を大きく促した。
日宋貿易による大量流入と「銭荒」
日本では、10世紀後半に国家による貨幣鋳造(皇朝十二銭)が途絶えて以降、絹や布、米などを価値の尺度とする物品貨幣の時代が長く続いていた。しかし、11世紀後半から12世紀にかけて民間レベルで日宋貿易が活発化すると、中国の宋王朝で鋳造された銅銭が日本へもたらされるようになった。特に平安時代末期、平清盛が大輪田泊(現在の神戸港)を修築し、日宋貿易を国家規模で強力に推進すると、宋銭の輸入量は飛躍的に増加した。宋は経済が極めて発達した時代であり、歴代皇帝のもとで膨大な量の銅銭が鋳造されていたが、日本をはじめとする周辺諸国への大量流出により、宋国内では深刻な貨幣不足(銭荒)が引き起こされた。南宋政府は銅銭の輸出を厳禁したが、日本の商人や僧侶らによる密貿易を含めた輸入の波は止まらなかった。
日本国内における流通と貨幣経済の復活
初期において、輸入された宋銭は貴族や大寺社による富の蓄積手段、あるいは仏具の材料や威信財としての性格が強かった。しかし、12世紀末から13世紀(鎌倉時代)に入ると、次第に一般の商取引にも用いられるようになった。持ち運びが容易で分割可能な金属貨幣の利便性は高く、年貢を銭で納める代銭納(だいせんのう)が普及し始めたことで、地方の荘園・公領の隅々にまで宋銭が行き渡ることとなった。朝廷や鎌倉幕府は当初、従来の米や布による経済秩序を維持しようと、度々銭の流通を禁じる法令を出したが、実体経済の急速な変化を止めることはできず、やがて宋銭の流通を容認・追認せざるを得なくなった。こうして宋銭は、日本国内において事実上の標準貨幣として定着していった。
中世社会に与えた影響と歴史的意義
宋銭の普及は、中世日本の経済・社会構造に根本的な変革をもたらした。貨幣流通の活発化は遠隔地交易や定期市(三斎市など)の発展を促し、港や宿場では問丸(といまる)と呼ばれる運送・委託販売業者が台頭し、さらに借上(かしあげ)などの高利貸業者も出現した。「皇宋通宝」や「元豊通宝」、「太平通宝」といった多種多様な宋銭は、日本各地の遺跡から備蓄銭(埋蔵銭)として大量に出土しており、当時の社会において宋銭が確固たる信用を持っていたことを如実に物語っている。
日本は中世を通じて独自の公鋳貨幣を発行しなかったが、それでも高度な経済成長を遂げることができた。それは、中国大陸における巨大な経済力と信用を背景に持つ宋銭(のちの明銭を含む渡来銭)が、日本国内の経済の血液として機能し続けたからに他ならない。宋銭の流入は、単なる貿易の副産物にとどまらず、日本の中世社会を貨幣経済へと力強く牽引した極めて重要な歴史的転換点であった。