安達景盛 (あだちかげもり)
【概説】
鎌倉時代中期の有力御家人で、源頼朝の最側近であった安達盛長の子。北条氏の執権政治を支え、1247年の宝治合戦では外孫の北条時頼を擁して有力ライバルである三浦氏を滅ぼし、安達氏の全盛期を築いた人物である。
源頼家との対立と北条氏との緊密化
安達景盛の父である安達盛長は、源頼朝が伊豆に流されていた時代からの側近中の側近であり、幕府草創期において絶大な信頼を得ていた。景盛もまた、頼朝の死後に始まった将軍独裁の抑制と宿老政治への移行の中で、重要な政治的位置を占めるようになる。
第2代将軍・源頼家の時代、景盛は自らの愛妾を頼家に奪われそうになるという事件(安達景盛の首謀とされる謀叛の嫌疑事件)に巻き込まれた。この際、頼朝の尼御台である北条政子が介入して景盛を救った。この事件を機に、景盛および安達一族は北条氏との結びつきを急速に強め、将軍独裁に抗する北条主導の合議制(十三人の合議制など)を支持する側に回ることとなった。その後、比企氏の乱や和田合戦、承久の乱において景盛は北条氏の忠実な同盟者として武功を挙げ、幕府内での地位を確固たるものにしていった。
高野山隠棲と幕政への「復帰」
景盛は1218年頃に出家し、「覚地房」と名乗って高野山に隠棲した。しかし、これは政治的前線からの完全な引退を意味しなかった。隠棲中も幕政の動向に鋭い関心を寄せ、安達一族の後見人、さらには幕府の最高宿老としての権威を維持し続けた。
特に、自らの娘(松下禅尼)が北条極楽寺流の重時や得宗家へと嫁ぎ、その血筋から第5代執権となる北条時頼が誕生したことは、景盛にとって安達氏の運命を決定づける好機となった。時頼が執権に就任すると、景盛は若き執権の後見役として鎌倉に戻り、北条得宗家を全面的にバックアップする体制を整えたのである。
宝治合戦における主導的役割と三浦氏の滅亡
景盛の生涯において最大の画期となったのが、1247年(宝治元年)に発生した宝治合戦である。当時、幕府内では北条氏(得宗家)と並ぶ実力者である三浦泰村の一族が、御家人たちから強い支持を集めており、北条氏にとって最大の脅威となっていた。
高野山から鎌倉に戻った景盛は、三浦氏との協調路線を探る時頼や北条一門の宥和姿勢に猛反発し、一族に対して「今こそ三浦を討ち、累代の宿意を晴らすべき時だ」と強硬に主戦論を主張した。景盛の執念に押される形で、安達軍が三浦館への武力衝突を誘発させ、結果として時頼を全面戦争へと踏み切らせた。この戦いにより、三浦泰村・光村兄弟をはじめとする三浦一族は滅亡し、幕府内の対抗勢力は完全に排除された。
宝治合戦の勝利により、北条得宗家による専制政治(得宗専制)の基礎が確立されると同時に、その強力な外戚となった安達氏は、北条氏に次ぐ幕内第一の有力御家人としての地位を確立した。景盛は合戦の翌年である1248年に病没するが、彼の政治的遺志と安達氏の強大な権力は、のちの「霜月騒動」に見られる北条氏との二大勢力衝突へと繋がっていくこととなる。