新制 (しんせい)
【概説】
平安時代中期から鎌倉時代にかけ、朝廷や幕府が社会秩序の維持や統治の是正(徳政)のために発布した新たな法規範。従来の律令格の枠組みにとらわれず、現実の社会問題や天皇の代替わりなどの節目に対処する形で制定された。
律令法の変質と「新制」の誕生
律令体制が崩壊し、土地や人民の支配が受領(国司)による請負へと移行する王朝国家体制が成立すると、それまでの基本法であった「律令」や「格(きゃく)」では現実の社会に対応できなくなった。10世紀末以降、朝廷は特定の事件や社会問題に対し、天皇の宣旨や官符を個別に出して対処するようになった。これが新制の起源である。新制は、変化する中世社会の現実に即した柔軟な法規範として定着し、中世法体系の中核を形成していくこととなった。
「徳政」思想と代表的な新制の展開
新制が発布される契機として最も重要だったのが、天皇の代替わりなどに際して行われた「徳政(社会を正しい本来のあり方に戻す徳行)」である。特に1069年に後三条天皇が発布した「延久の新制」は、記録荘園券契所の設置を伴う画期的な荘園整理令であり、基準に反する荘園を整理して公領(国衙領)を保護する大きな成果を上げた。また、保元の乱(1156年)直後に後白河天皇が発布した「保元の新制」は、戦乱後の治安回復や荘園整理、社寺の統制を目的としており、王権の建直しをアピールする政治的デモンストレーションとしての側面を強く持っていた。
武家政権への影響と「関東新制」
鎌倉時代に入ると、新制の仕組みは鎌倉幕府(武家政権)にも取り入れられた。幕府は基本法として「御成敗式目(貞永式目)」を定めたが、その後に発生した社会の変化や紛争に対処するため、追加の法令である「追加法」を次々と発布した。幕府によるこれらの新法令は「関東新制」とも呼ばれ、朝廷が発布する「国政新制」と時に協調し、時に競合しながら中世の分権的な法秩序を構成した。新制は、公武二元支配の社会において、双方が正当な統治権を行使するための重要な手段であった。