倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)

1183年、加賀国と越中国の国境において、源義仲が平氏の10万の大軍を谷底に突き落として壊滅させた戦いは何か?
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倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い) (くりからとうげのたたかい/となみやまのたたかい)

1183年

【概説】
1183年(寿永2年)、加賀国と越中国の国境にある倶利伽羅峠(砺波山)において、源義仲(木曾義仲)軍が平維盛率いる平氏の大軍を撃破した戦い。
義仲が夜襲に乗じて「火牛の計」を用いたと伝えられ、混乱した平氏軍を谷底へ突き落として壊滅的な打撃を与えた。
この敗戦により平氏は軍事的な致命傷を負い、義仲の入京と平氏の都落ちを決定づけることとなった。

治承・寿永の乱の展開と義仲の北陸進出

1180年(治承4年)の以仁王の令旨を契機として全国各地で反平氏の挙兵が相次ぐ中、信濃国で木曾谷を拠点に挙兵したのが源義仲(木曾義仲)である。義仲は横田河原の戦いで越後の城氏を破り、北陸地方へと勢力を拡大した。当時、北陸道は京都の平氏政権にとって重要な食糧供給ルートであり、ここを義仲に押さえられることは深刻な脅威であった。さらに、北陸地方の在地武士や寺社勢力も平氏の過酷な支配に反発しており、義仲は彼らを巧みに糾合して強大な軍事力を形成していった。

平氏の追討軍派遣と倶利伽羅峠での対峙

1183年(寿永2年)、事態を重く見た平家は、平維盛を総大将とする大規模な追討軍を北陸道へ派遣した。『平家物語』にはその兵力を「十万余騎」と記すが、実際の規模は数万程度であったと推定されている。当時の西国は「養和の飢饉」の甚大な被害を受けており、平氏軍は深刻な兵糧不足とそれに伴う士気の低下を抱えていた。越前・加賀を制圧しながら進軍してきた平氏軍に対し、義仲は越中国の砺波山、現在の富山県と石川県の県境に位置する倶利伽羅峠でこれを迎え撃つ戦略を立てた。

奇襲戦法と「火牛の計」の実態

両軍は倶利伽羅峠を挟んで対峙した。義仲は平氏軍を峠の狭隘な地形に誘い込むと同時に、日中は白旗を多数立てて自軍を大軍に見せかけるなど、巧妙な心理戦を展開した。そして夜間になると、義仲軍は密かに迂回させた別働隊により、背後から平氏軍の陣へ猛烈な夜襲をかけた。

『源平盛衰記』などの軍記物語によれば、このとき義仲軍は、数百頭の牛の角に松明を括り付けて敵陣に放つ「火牛の計(かぎゅうのけい)」を用いたとされている。これは中国の戦国時代における田単の「火牛の陣」の故事に倣ったとされるが、同時代の史料である『玉葉』などには記載がなく、後世の脚色・創作とする見方が強い。しかし、義仲軍の周到な夜襲によってパニックに陥った平氏軍が暗闇の中で方向感覚を失い、次々と深い谷底へ転落し、圧死者や転落死者が続出して大混乱に陥ったことは歴史的事実と考えられている。

歴史的意義と平家滅亡への決定打

この戦いにより平氏軍は数万の兵の大部分を失い、総大将の維盛はわずかな供回りとともに命からがら京都へ逃げ帰った。倶利伽羅峠の戦いでの壊滅的な敗北は、平氏政権にとって挽回不可能な軍事的・政治的致命傷となった。勝利した義仲は破竹の勢いで軍を進め、同年7月に念願の上洛を果たすことになる。

一方、京都の防衛を諦めた平家一門は、安徳天皇と三種の神器を擁して西国へと逃れる「平氏の都落ち」を余儀なくされた。このように、倶利伽羅峠の戦いは源平合戦(治承・寿永の乱)における一局地戦にとどまらず、両者の力関係を完全に逆転させ、平家滅亡と鎌倉幕府成立へと向かう歴史の大きな転換点となった極めて重要な戦闘であると評価される。

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫 1988)

史料批判に基づき治承・寿永の乱の虚像を解体し、変革期の政治的実相と構造的解明に迫る歴史学の精華。

源平争乱と平家物語 角川選書

文学と史実の狭間に潜む平家物語の成立過程を追い、歴史の転換点における武士の台頭を読み解く検証の書。

最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

日本史一問一答(ランダム)

Q. 用途が分化した弥生土器のうち、底にすすが付着していることが多い、主に煮炊きに用いられた容器を何というか?
A.
Q. 鎌倉府において関東管領を世襲し、幕府(将軍)と結びついて鎌倉公方の足利持氏らと対立を深めた一族は何か?
Q. 1181年頃に西日本一帯を襲った深刻な大飢饉で、西国を地盤とする平氏の兵糧調達を困難にさせ、衰退の一因となったものを何というか?