奈良時代前期

奈良時代の3区分のうち、平城京への遷都から、藤原不比等や長屋王が政権を握って律令体制を確立していった最初の時期を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

奈良時代前期

710年〜724年頃

【概説】
平城京への遷都から、聖武天皇が即位するまでの約15年間を指す時代区分。藤原不比等長屋王が主導して律令体制の整備を進め、中央集権的な国家支配を確立した。一方で、人口増加による口分田の不足が顕在化し、土地制度の改革を通じて公地公民制が変容し始めた画期でもある。

平城京遷都と藤原不比等による律令体制の確立

710年(和銅3年)、元明天皇は藤原京から唐の長安を模した大規模な都城である平城京への遷都を断行した。この一大事業を実質的に主導したのが、大化の改新の功臣である中臣鎌足の子、藤原不比等である。不比等は、大宝律令(701年)の制定に深く関与した経験を活かし、さらなる制度の緊密化を目指して718年(養老2年)に養老律令を編纂した。この律令は、不比等の死後、757年(天平宝字元年)に藤原仲麻呂の手によって施行されることになるが、奈良時代を通じて国家支配の根本法典であり続けた。

また、この時期には国家の歴史的正統性を示すための編纂事業も結実している。712年には『古事記』が、720年には『日本書紀』が完成し、天皇を中心とする律令国家のイデオロギーが強固に構築された。不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人とし、さらにその間に生まれた首皇子(のちの聖武天皇)への皇位継承を画策するなど、藤原氏台頭の確固たる基盤を築き上げた。

公地公民制の限界と「三世一身法」

平城京遷都後の社会の安定と人口増加は、一方で律令制の根幹である「公地公民制」の破綻を招きつつあった。班田収授法に基づいて人々に分け与えるべき口分田が不足し始めたのである。これに加え、重い税負担(調・庸・防人など)から逃れるために、偽籍(戸籍の偽り)や浮浪・逃亡が相次ぎ、国家の税収や兵力の確保は危機に直面した。

この事態に対し、政府は722年に「百万町歩開墾計画」を掲げ、翌723年(養老7年)には三世一身法(さんぜいっしんのほう)を制定した。これは新規に灌漑施設を設けて開墾した土地に対して三代(本人・子・孫)にわたる私有を認め、古い灌漑施設を利用して開墾した土地には一代(本人)の私有を認めるというものである。それまで原則として土地の私有を認めていなかった律令国家が、自らの維持のために土地私有の容認へと舵を切った歴史的転換点であり、のちの「墾田永年私財法」(743年)へと繋がる重要な伏線となった。

不比等の死と長屋王の政権掌握

720年(養老4年)に藤原不比等が世を去ると、政権の主導権は藤原氏から皇親(天武天皇の孫)の実力者である長屋王へと移った。長屋王は右大臣(のち左大臣)として政権を統率し、前述の三世一身法の制定など、現実的な農民支配と国家財政の再建に努めた。長屋王の邸宅跡からは多くの木簡が出土しており、当時の高度な官僚制や東アジア世界との活発な交流を示す資料となっている。

しかし、長屋王による政治は天皇を中心とする皇親勢力の復権を目指すものであったため、急速な勢力拡大を図る藤原不比等の四人の息子たち(藤原四兄弟)との間に深い政治的対立を生むこととなる。この対立は、奈良時代前期の終焉と、それに続く聖武天皇期の激しい政変(729年の長屋王の変)へと発展し、奈良時代中期の政局混迷の引き金となった。このように、奈良時代前期は律令制が制度的な完成を見る華々しい時代であると同時に、内実においては制度の軋みと深刻な政治対立の萌芽を孕んだ過渡期であったと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 政商の古河市兵衛が、足尾銅山や阿仁銅山の払い下げを受けて鉱山経営を基盤に成長させた財閥は何か?
Q. 740年の藤原広嗣の乱を機に、聖武天皇が平城京から一時的に遷都した山背国(京都府)の都はどこか?
Q. 1880年代後半以降、株式会社の制度が広く普及し、鉄道や紡績などの大規模な近代企業が次々と誕生した好景気を一般に何というか?