奈良時代中期 (ならじだいちゅうき)
【概説】
8世紀中頃の、聖武天皇から孝謙・称徳天皇の治世にあたる時代。皇位継承や主導権をめぐる激しい政争によって政権担当者が目まぐるしく変遷した。その一方で、仏教による国家鎮護を目指す政策が強力に推進され、国際色豊かな天平文化が華麗に花開いた時期でもある。
相次ぐ政変と政権担当者の激しい変遷
奈良時代中期は、律令体制の動揺や天皇家を取り巻く権力闘争を背景に、支配層の内部で血生臭い政争が絶え間なく続いた動乱の時代である。729年、藤原氏の陰謀により左大臣・長屋王が自殺に追い込まれた長屋王の変を契機に、藤原不比等の四子が主導する藤原四子政権が成立した。しかし、当時流行した天然痘によって四子が相次いで病死すると、政権は皇族出身の橘諸兄へと移り、遣唐使帰りの吉備真備や僧・玄昉が重用されることとなった。
この新政権に反発した藤原広嗣は、740年に九州で反乱を起こした(藤原広嗣の乱)。反乱自体は鎮圧されたものの、社会の動揺を恐れた聖武天皇は平城京を離れ、恭仁京、難波京、紫香楽宮へと目まぐるしく遷都を繰り返す「彷徨」を行うこととなった。その後、不比等の孫にあたる藤原仲麻呂(恵美押勝)が台頭して橘奈良麻呂の変を鎮圧し、一時的に専制権力を握ったが、最終的には仲麻呂もまた皇位継承をめぐる争い(恵美押勝の乱)で敗死するなど、政治的中枢の混迷は極限に達していた。
鎮護国家思想の展開と天平文化の興隆
相次ぐ政変、疫病の流行、そして大地震などの天災に見舞われた聖武天皇は、仏教の教えによって国家の平穏を得ようとする鎮護国家の思想に深く傾倒していった。その具現化として、741年には諸国に国分寺・国分尼寺の建立の詔が出され、さらに743年には東大寺の大仏造立の詔が発せられた。莫大な国家財政と人員が投じられた大仏は、752年に華々しく開眼供養が執り行われ、この時期の国家仏教の頂点を示した。
こうした仏教の隆盛と、遣唐使がもたらした唐朝の高度な制度や文化は、平城京の貴族社会に深く浸透し、きわめて国際色豊かな天平文化を結実させるにいたった。聖武天皇の愛用品などを収めた東大寺の正倉院宝物には、ササン朝ペルシアやインドなどの影響を受けた工芸品が多数含まれており、当時の平城京がシルクロードの終着点として機能していたことを生々しく伝えている。
怪僧道鏡の台頭と天武系皇統の終焉
恵美押勝の乱を平定したのち、政権の実権は重祚した女帝・称徳天皇(孝謙天皇)と、その寵愛を受けた法相宗の僧・道鏡へと移った。道鏡は太政大臣禅師、さらには法王となって仏教政治を強力に推進したが、ついには宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を奪おうとするまでに至った(宇佐八幡宮神託事件)。この野望は和気清麻呂らの命がけの抵抗によって阻止されたが、仏教が政治に深く介入しすぎた弊害が露呈する結果となった。
770年に称徳天皇が後継者を指名せぬまま崩御すると、道鏡は失脚し、天武天皇以来続いていた天武系の直系皇統は断絶することとなった。代わって天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位し、平城京の政治秩序を再建する動きが始まる。この皇統の交代と仏教政治からの脱却への動きは、のちの長岡京・平安京への遷都、すなわち奈良時代の終焉と平安時代の幕開けを準備することとなった。