恭仁京 (くにきょう)
【概説】
奈良時代中期、藤原広嗣の乱を契機として聖武天皇が平城京から遷都した、山背国相楽郡(現在の京都府木津川市)の都。橘諸兄政権下で約3年間にわたり首都として機能し、国分寺建立の詔や墾田永年私財法など、のちの律令国家のあり方を大きく左右する重要政策がこの地で打ち出された。
藤原広嗣の乱と聖武天皇の「彷徨」
天平9(737)年、政権を握っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで病死すると、皇族出身の橘諸兄が右大臣に就任して政権を掌握した。諸兄は遣唐使帰りの吉備真備(下道真備)や僧の玄昉をブレインとして重用したが、これに不満を抱いた藤原式家の藤原広嗣が天平12(740)年、九州の大宰府で反乱を起こした(藤原広嗣の乱)。
この反乱に強い危機感を抱いた聖武天皇は、平城京を脱出して関東・東海地方を行幸する「彷徨」を開始した。そして乱の平定を待たずして、突如として平城京へ戻らない意思を示し、同年12月に橘諸兄の本拠地に近い山背国相楽郡への遷都を宣言した。これが恭仁京の始まりである。平城京内の旧勢力や伝統的な仏教勢力との結びつきを断ち切り、橘諸兄を中心とする新体制による政治刷新を目指した遷都であったとされる。
恭仁京における重要政策と山背国分寺への変遷
恭仁京は、大内裏や内裏の建設が進められる一方で、条坊制の整備などが未完成のまま政治の中心地となった。しかし、この恭仁京の時代には、奈良時代の国家体制を揺るがす極めて重要な政策が次々と決定されている。天平13(741)年には、国家的な災異を仏教の力によって鎮めるため、全国に国分寺・国分尼寺を建立させる国分寺建立の詔が発布された。さらに天平15(743)年には、班田収授の崩壊と貴族・大寺社による墾田の私有化を公式に認めることとなる墾田永年私財法が制定された。これらはすべて恭仁京において発令された政策であり、律令体制の変容期における画期となった。
しかし、聖武天皇の政治的・宗教的な模索は恭仁京に留まらなかった。天平15(743)年末には、大仏造立(のちの東大寺大仏)の詔を近江国の紫香楽宮で発布し、都の機能も徐々に他所へ移り始める。天平16(744)年には摂津国の難波京への遷都が強行され、恭仁京は実質的に廃都となった。その後、短期間の紫香楽宮への遷都を経て、最終的に天平17(745)年に都は平城京へと戻された。恭仁京の廃都後、その宮殿の遺構は山背国分寺(国分僧寺)へと転用され、現在もその広大な礎石群が国の史跡として残されている。