奈良時代の区分(前期・中期・後期)
【概説】
奈良時代の約74年間を、政権の担当者や政治体制の変容、文化の特質などに基づいて3つの時期に分けた歴史区分。律令国家の確立から動揺、そして再編成へと向かう政治動向と密接に連動している点が特徴である。
前期(710年〜740年):律令体制の整備と皇親・藤原氏の相克
奈良時代の前期は、元明天皇による平城京遷都(710年)から、藤原広嗣の乱(740年)あたりまでを指す。この時期は、大宝律令の制定に尽力した藤原不比等が政権を主導し、律令国家の基礎が固められた時期である。不比等の死後は、天武天皇の孫にあたる長屋王が右大臣(のち左大臣)として皇親勢力を率い、政権を担った。
しかし、不比等の息子たちである藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、長屋王が謀反を企てていると讒言し、自殺に追い込む(長屋王の変、729年)。これにより藤原氏が主導権を握るが、737年に天然痘の大流行によって藤原四子が相次いで病死すると、政権は皇族出身の橘諸兄へと移る。諸兄は唐から帰国した吉備真備や玄昉を重用したが、これに不満を抱いた藤原宇合の長男・藤原広嗣が九州で反乱(藤原広嗣の乱)を起こすなど、政情は極めて不安定であった。
中期(740年〜770年):天平文化の最盛期と政局の激動
中期は、聖武天皇による度重なる遷都(恭仁京・難波京・紫香楽宮)の混迷期から始まり、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の崩御にいたる約30年間を指す。この時期は、仏教の力で国家の安定を図る鎮護国家の思想が最盛期を迎え、東大寺の大仏造立や国分寺・国分尼寺の建立が進められた。いわゆる天平文化が華開いた時代である。
政治面では、橘諸兄に代わって光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂(恵美押勝)が台頭した。仲麻呂は橘奈良麻呂の乱を鎮圧して権力を掌握し、儒教的・唐風の政治を推進したが、後ろ盾であった光明皇太后の死後は急速に求心力を失う。代わって台頭したのが、病気療養を契機に孝謙上皇の深い寵愛を得た僧の道鏡であった。仲麻呂は反乱を起こすも敗死し(恵美押勝の乱、764年)、道鏡は法王に上り詰めて政権を掌握した。道鏡の権勢は宇佐八幡宮神託事件(769年)による皇位簒奪未遂にまで達したが、和気清麻呂らの阻止によって阻まれた。
後期(770年〜794年):天智系皇統への移行と律令政治の再建
後期は、称徳天皇の崩御に伴い天武天皇の皇統が途絶え、藤原百川らの擁立によって天智天皇の孫である光仁天皇が即位(770年)した時期から、平安遷都(794年)にいたる期間である。この時期、政権の中枢からは道鏡をはじめとする仏教勢力が排除され、本来の律令政治を再建しようとする動きが本格化した。
光仁天皇と、その意志を継いだ桓武天皇は、肥大化し政治介入を繰り返す奈良の仏教勢力(南都六宗)の影響力を断ち切るため、遷都を決断する。これにより、784年の長岡京遷都、そして794年の平安京遷都へとつながり、奈良時代はその幕を閉じる。また、地方政治の弛緩を是正するために、国司の不正を監視する勘解由使が設置されるなど、平安時代へと引き継がれる行政改革の基礎がこの後期に形成された。