天然痘

高校日本史的重要度
★★

天然痘 (てんねんとう)

735年〜737年大流行

【概説】
奈良時代の天平年間(735年〜737年)に平城京を中心に日本全国で猛威を振るった、強力な感染力と高い致死率を持つ急性感染症。当時の政権中枢にいた藤原四兄弟を全員病死させたことで政治体制の激変を招き、聖武天皇が仏教による国家救済を目指す契機となった歴史的疫病。

九州からの伝播と藤原四兄弟の病死

この天平の天然痘大流行は、735年(天平7年)に筑前国(現在の福岡県)など九州地方で発生した。新羅からの使節や遣唐使の帰国などを媒介に朝鮮半島から流入したと推測されており、太宰府から山陽道を経て、737年(天平9年)には平城京で爆発的な流行を見るに至った。

この大流行は、当時の朝廷の権力構造を根底から覆した。当時、朝廷の実権を握っていた藤原不比等の4人の息子、すなわち藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の「藤原四兄弟」が相次いで病死したのである。政権担当者を一挙に失った藤原氏は一時的に後退し、代わって皇族出身の橘諸兄が右大臣に就任して政権を握るという、急激な政治権力のシフトが引き起こされた。

聖武天皇の「鎮護国家」政策への影響

天然痘の猛威は貴族階級だけでなく、一般の農民層にも及んだ。当時の全人口の約25〜35%が死亡したとも推定されており、深刻な人口減少とそれに伴う荒廃は、律令国家の経済基盤を揺るがした。

この未曾有の国難に直面した聖武天皇は、相次ぐ災害や疫病を自らの徳の欠如や社会の乱れによるものと考え、仏教の力によって国家の安寧を図る鎮護国家思想へ深く傾倒していくこととなる。これが、741年の国分寺建立の詔や、743年の東大寺大仏造立の詔の発令に直接結びつき、天平文化を代表する大規模な仏教国家プロジェクトが推進される契機となった。

政治的混乱の継続と社会構造の変容

疫病による社会不安は、さらなる政治的動乱を誘発した。740年(天平12年)には、政権から排除された藤原宇合の長男である藤原広嗣が九州で叛乱(藤原広嗣の乱)を起こし、聖武天皇が平城京を離れて近畿各地を転々とする「彷徨の五年」と呼ばれる遷都を繰り返す事態に陥った。

また、疫病による労働力不足は、条里制に基づく口分田の荒廃を招き、政府は懇田の私有を認める墾田永年私財法(743年)の制定を余儀なくされた。このように、天平期の天然痘流行は、単なる公衆衛生上の悲劇にとどまらず、奈良時代の政治、思想、そして公地公民制という律令体制の根幹を揺るがし、社会構造を変容させる決定的な契機となったのである。

最終更新:
2026年9月20日 @ 09:57

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