太政大臣(奈良時代) (だじょうだいじん)
【概説】
日本の律令制において、太政官の頂点に立つ最高官職。天皇を補佐して国政の最高権力を握る役職であり、適任者がいなければ置かない「則闕の官」とされた。奈良時代には藤原仲麻呂が唐風に「太師」と改称して非皇族として初めて就任したほか、僧の道鏡が就任するなど、突出した権力者の地位を象徴するポストとして機能した。
律令体制における「則闕の官」
太政大臣(だじょうだいじん)は、大宝律令および養老律令において定められた太政官の最高官職である。左大臣・右大臣の上に位置し、国政を統理する権限を持っていたが、同時に「則闕の官(そっけつのかん)」(適任者がいなければ欠員とする役職)と規定されていた。そのため、常に任命されるわけではなく、国家の元勲や皇族の長老など、特別な功績や権威を持つ者のみが就任する名誉的・象徴的な性格が強かった。
歴史上の初例は、飛鳥時代末期の天智天皇10年(671年)に任命された大友皇子(後の弘文天皇)である。その後も高市皇子など有力な皇族が任命されるに留まっており、奈良時代前期にかけては臣下が就任することはなかった。実際の国政の実務は、主に左大臣や右大臣が太政官の筆頭として取り仕切っていたのである。
藤原仲麻呂による「太師」への改称と権力掌握
奈良時代中期になると、太政大臣の性質に大きな変化が生じた。聖武天皇の没後、光明皇太后の威光を背景に台頭した藤原仲麻呂(恵美押勝)は、政敵である橘諸兄や橘奈良麻呂を退け、国政の実権を掌握した。儒教や唐の制度に深く傾倒していた仲麻呂は、天平宝字2年(758年)に官職名を唐風に改める政策を実施し、太政大臣を「太師(たいし)」へと改称した。
そして天平宝字4年(760年)、仲麻呂は自ら太師(太政大臣)に就任する。これは皇族以外の臣下として史上初めて太政大臣に任命された画期的な出来事であった。仲麻呂の就任は、太政大臣が単なる皇族の名誉職から、強大な権力を持つ臣下が天皇に代わって専制的な政治を行うための「実質的な最高権力者のポスト」へと変質したことを意味している。
道鏡の台頭と太政大臣の歴史的意義
しかし、藤原仲麻呂は孝謙上皇との対立から天平宝字8年(764年)に恵美押勝の乱(仲麻呂の乱)を起こして滅亡する。その後、称徳天皇(孝謙上皇が重祚)の絶大な寵愛を受けて国政を握ったのが僧の道鏡である。道鏡は天平神護元年(765年)に特例として太政大臣禅師に任命され、翌年には宗教的権威と世俗的権威を統合した法王にまで昇り詰めた。
奈良時代における藤原仲麻呂や道鏡の太政大臣(およびそれに類する役職)への就任は、律令制の枠組みを利用しながらも、それを逸脱するほどの専制権力を臣下が振るうようになった当時の政治状況を克明に示している。平安時代に入ると、藤原良房が太政大臣に就任して人臣初の摂政となり、本格的な摂関政治の扉を開くことになるが、奈良時代における彼らの権力掌握は、まさに臣下が太政大臣として国政を主導する先駆けとしての重要な歴史的意義を持っていたのである。