行信 (ぎょうしん)
生没年不詳
【概説】
奈良時代の法相宗の僧。聖徳太子を追慕し、荒廃していた斑鳩宮の跡地に法隆寺東院(夢殿など)を建立して太子信仰の復興に尽力した人物。
法隆寺東院の建立と太子信仰の復興
行信の最大の業績は、聖徳太子(上宮太子)の住居であった斑鳩宮の荒廃を嘆き、その旧跡に法隆寺東院伽藍を再興したことである。天平11年(739年)頃、行信は光明皇后をはじめとする皇室や貴族の援助を得て、八角円堂の夢殿を中心とする東院伽藍を建立した。これは、かつて蘇我入鹿の軍勢によって攻め滅ぼされた山背大兄王ら上宮王家(聖徳太子の一族)の菩提を弔うためでもあった。行信による東院の建立は、奈良時代中期において、聖徳太子を観音菩薩の化身として崇める太子信仰を定着・発展させる決定的な契機となった。
政治闘争への関与と晩年
行信は東大寺の造営や鑑真の来朝に関わるなど、当時の仏教界の要職を歴任し、天平勝宝3年(751年)には大僧都に任ぜられるなど重きをなした。しかし、当時の仏教界は政界の権力闘争と深く結びついており、行信もその渦中に巻き込まれることとなる。天平宝字8年(764年)に発生した恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)において、行信は藤原仲麻呂に荷担して厭魅(呪詛)を行ったとの罪に問われ、下野国(現在の栃木県)へと配流された。その後の消息は明らかではないが、行信が法隆寺に残した精神的・建築的遺産は、その後の日本仏教における聖徳太子崇拝の基盤として長く受け継がれることとなった。