大安寺 (だいあんじ)
【概説】
飛鳥時代に舒明天皇が建立した百済大寺を起源とし、藤原京の大官大寺を経て、平城京遷都に伴い現在地に移転・改称された高格の官寺。奈良時代には南都七大寺の一つに数えられ、東大寺や興福寺と並ぶ国家仏教の一大拠点として栄えた。
「大寺」の系譜と平城遷都
大安寺の歴史は、日本の国家仏教における官寺の変遷そのものである。その祖型は、639年に舒明天皇の発願によって建立された百済大寺に遡る。百済大寺は日本最初の「天皇の平群の大寺」として誕生し、のちに天武天皇の時代に高市大寺へと移され、さらに持統天皇の藤原京遷都に伴って大官大寺と改称・整備された。大官大寺は官寺の筆頭として国からの手厚い保護を受け、朝廷の鎮護を担う最重要寺院となった。
710年の平城京遷都の際、大官大寺も平城京の左京六条四坊へと移転することとなり、この地で大安寺と名を改めた。実際の移転作業は716年頃から本格化し、入唐求法僧である道慈が唐の長安にある青龍寺などの優れた寺院建築を範にとり、壮大な伽藍を設計・指揮した。これにより、平城京内でも屈指の規模を誇る大寺院が完成することとなった。
鎮護国家の拠点と渡来僧の受け入れ
奈良時代の大安寺は、国家の安寧を祈る鎮護国家の道場として最高位に位置づけられていた。広大な境内には南大門、巨大な東西の七重塔、金堂、講堂などが整然と立ち並び、国家的な法会が数多く執り行われた。
また、大安寺は当時の東アジアにおける「知の結節点」でもあった。唐から帰国した道慈が最新の仏教思想や土木技術をもたらしただけでなく、海外からの知識人を広く受け入れる国際的な学術センターとしても機能した。736年には、唐の僧である道璿、インドの僧である菩提僊那、林邑(現在のベトナム)の僧である仏哲らが来日し、大安寺を拠点として活動した。彼らは後に東大寺大仏の開眼供養会で重要な役割を果たすことになるが、その思想的・組織的な準備は大安寺において進められていたのである。大安寺は、最先端の学問を学ぶ「大学」のような役割を果たし、日本仏教の発展に多大なる貢献を遺した。