蘇我蝦夷

重要度
★★★

【参考リンク】
蘇我蝦夷(Wikipedia)

蘇我蝦夷 (そがのえみし)

?〜645年

【概説】
飛鳥時代中期の政治家で、蘇我馬子の後継者として大臣(おおおみ)を務めた人物。
大王(天皇)権力をしのぐほどの専横を極めたとされ、のちに中大兄皇子らによるクーデター(乙巳の変)によって息子の入鹿が暗殺されると、邸宅に火を放って自害した。
彼の死によって4代続いた蘇我本宗家は滅亡し、大化の改新と呼ばれる政治改革の端緒が開かれることとなった。

推古朝後の後継者争いと権力基盤の確立

626年の父・蘇我馬子の死を受け、蘇我蝦夷は大臣の地位を継承し、飛鳥時代の国政を主導する立場となった。蝦夷が直面した最初の大きな政治的課題は、628年の推古天皇崩御に伴う皇位継承問題である。

当時、有力な皇位継承候補として、敏達天皇の孫である田村皇子と、聖徳太子(厩戸皇子)の子である山背大兄王が存在した。蝦夷は群臣の意見が割れる中、蘇我氏の血を引く山背大兄王ではなく、自らが御しやすいと考えた田村皇子を擁立し、舒明天皇として即位させた。この過程で対立する一族の境部摩理勢を討伐するなど、強硬な手段を用いて蘇我本宗家の権力基盤を確固たるものにしている。

王権をしのぐ権勢と「専横」の実態

舒明天皇およびその次代の皇極天皇の治世下において、蘇我氏の権勢は絶頂期を迎えた。『日本書紀』の記述によれば、蝦夷は飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)に大王の宮廷を見下ろすような豪壮な邸宅を構え、自らの家を「上の宮庭」「下の宮庭」と呼ばせたという。また、生前から自身の墓を造営し、大王の墓にのみ許される「大陵」「小陵」の名称を使用するなど、王権の不可侵性を侵すような振る舞いが記録されている。

このような蝦夷の行動は「専横」として後世に伝えられている。しかし、近年の歴史学研究においては、『日本書紀』がクーデターの勝者である天智天皇(中大兄皇子)や藤原氏(中臣鎌足)の正当性を強調するために、蘇我氏の悪逆ぶりを意図的に誇張して描いた可能性が高いと指摘されている。当時の東アジア情勢が緊迫化する中で、強力なリーダーシップを発揮して国家権力の中央集権化を推し進めようとした姿が、結果として「専横」と映った側面も無視できない。

入鹿への権力委譲と山背大兄王の悲劇

晩年の蝦夷は次第に病がちとなり、国政の実権を息子の蘇我入鹿に委ねていった。しかし、この権力移行期に蘇我氏の命運を左右する重大な事件が発生する。643年、入鹿が独断で斑鳩宮を襲撃し、有力な皇位継承候補であった山背大兄王を一族もろとも自害に追い込んだのである。

『日本書紀』によれば、この凶報を聞いた蝦夷は「お前は自分の身を危うくした」と激怒し、入鹿の思慮の浅さを嘆いたとされる。この事件は、蘇我氏と血縁関係にあった上宮王家(聖徳太子の一族)を滅亡させたことで、他の豪族や皇族たちの間に蘇我本宗家に対する決定的な恐怖と反感を植え付ける結果となった。

乙巳の変と蘇我本宗家の滅亡

山背大兄王滅亡事件から2年後の645年、蘇我氏の専横に危機感を抱いた中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らによって、飛鳥板蓋宮での儀式の最中に蘇我入鹿が暗殺される(乙巳の変)。

息子の死を知った蝦夷は、甘樫丘の自邸に武装した一族や配下の東漢氏(やまとのあやうじ)などを集めて抗戦の構えを見せた。しかし、中大兄皇子側の周到な多数派工作により、蘇我氏の傍流である蘇我倉山田石川麻呂が新政権側に回るなど味方の離反が相次ぎ、蝦夷は戦わずして勝機がないことを悟った。

追い詰められた蝦夷は、自らの邸宅に火を放ち自害した。この時、推古朝に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる貴重な歴史書『天皇記』『国記』も炎に包まれた(『国記』のみ戦火から救い出されたと伝わる)。蝦夷の死により、蘇我稲目から馬子、蝦夷、入鹿と4代にわたって権勢を振るった蘇我本宗家は完全に滅亡し、日本の政治体制は律令国家への第一歩である大化の改新へと大きく舵を切ることとなった。

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書 2353)

権勢を誇った名門一族の盛衰を文献史学の視点から多角的に分析し、国家形成期の日本を浮き彫りにする歴史探求の書。

蘇我氏と飛鳥 (人をあるく)

歴史の舞台となった飛鳥の地を実際に歩き、遺跡の遺構や地形から蘇我氏の足跡と時代の空気感を追体験する紀行の一冊。

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