山背大兄王 (やましろのおおえのおう)
【概説】
聖徳太子(外祖父は蘇我馬子)の長子であり、飛鳥時代の皇族。父の没後、有力な皇位継承候補と目されたが、皇位を巡る政争に巻き込まれ、最終的に蘇我入鹿の軍勢に襲撃されて一族とともに自害した。彼の死によって聖徳太子の直系血統(上宮王家)は滅亡することとなった。
聖徳太子の後継者と皇位継承争い
山背大兄王は、政治改革や遣隋使の派遣などで知られる聖徳太子( could 厩戸皇子)と、蘇我馬子の娘である刀自古郎女との間に生まれた。高貴な血筋と、父である太子の高い名声を受け継いだ彼は、朝廷内でも一目置かれる存在であった。
628年に推古天皇が崩御すると、次期皇位を巡って朝廷は二分された。山背大兄王を支持する勢力と、敏達天皇の孫である田村皇子を支持する勢力が対立したのである。この時、朝廷の実権を握っていた大臣の蘇我蝦夷は、山背大兄王が蘇我氏の血を引いているにもかかわらず、自らの意のままに動かしやすいと判断した田村皇子を擁立した。結果、田村皇子が舒明天皇として即位し、山背大兄王は皇位を逃すこととなった。山背大兄王は争いを避けるために自ら身を引いたとされ、その温厚で理知的な人格が伺えるエピソードとして知られている。
斑鳩宮の急襲と上宮王家の滅亡
641年に舒明天皇が崩御し、その皇后であった皇極天皇が即位した後も、山背大兄王は次期天皇の最有力候補の一人であり続けた。これに危機感を抱いたのが、蘇我蝦夷の跡を継いで独裁的な権力を握ろうとしていた蘇我入鹿である。入鹿は、自らの従兄弟にあたる古人大兄皇子を皇位につけ、蘇我氏の権勢を不動のものにしようと画策した。
643年、蘇我入鹿は巨勢徳太や土師娑婆らに命じ、山背大兄王の居城である斑鳩宮(いかるがのみや)を突如襲撃させた。山背大兄王とその一族は一時的に生駒山へと逃れ、側近から東国へ下って兵を挙げるよう勧められたが、王は「己の身のために民衆を戦禍に巻き込みたくない」と拒否した。再び斑鳩寺(法隆寺)に戻った山背大兄王は、追っ手に囲まれる中で一族とともに自害し、これにより聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。
蘇我氏の専横と「乙巳の変」への導火線
山背大兄王の一族が滅ぼされたことは、当時の朝廷に大きな衝撃を与えた。人望のあった王を、私利私欲のために武力で抹殺した蘇我入鹿の暴挙は、他の皇族や諸豪族の間に強い危機感と反発を生み出すこととなった。入鹿の父である蘇我蝦夷でさえも、一族の身を滅ぼす暴挙であるとして入鹿を激しく叱責したと伝えられている。
この事件を契機に、蘇我氏打倒の動きが急速に具体化していく。皇族の首班であった中大兄皇子と、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らは水面下で結託し、蘇我氏打倒のクーデターを計画。これが645年の乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)へとつながり、その後の大化の改新と呼ばれる一大政治改革へと発展していった。山背大兄王の悲劇的な死は、蘇我氏の専横を極限まで際立たせ、結果として古代日本の国家体制を大きく変革する歴史の転換点となったのである。