興 (こう)
【概説】
5世紀後半に中国の南朝へ使節を派遣した「倭の五王」の4番目の王。
前王「済」の子であり、記紀(『古事記』『日本書紀』)における第20代安康天皇に比定される説が極めて有力である。中国の歴史書『宋書』倭国伝にその活動が記録されている。
『宋書』における「興」の記録と外交的成果
中国の南朝・宋の歴史を記した『宋書』倭国伝によると、倭王「済」が没したのち、その世子(跡継ぎ)である「興」が使者を送って貢献したとされる。これを受け、大明6年(462年)に宋の孝武帝は、興に対して「安東将軍 倭国王」の称号を授けた(除授した)。
この称号は、父である「済」が帯びていた「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」から「大」の一字が除かれた形での継承であった。また、当時の倭国が強く求めていた百済に対する軍事的指揮権(都督権)は、宋側が百済との外交関係に配慮したためか、興の代においても認められることはなかった。それでも、中国の南朝から正式に王位と将軍号を認められたことは、当時のヤマト政権の国内における統治基盤を固める上で、極めて重要な意味を持っていた。
安康天皇への比定と記紀の系譜
「興」は、記紀に登場する第20代安康天皇(穴穂皇子)に比定するのが通説となっている。その最大の理由は、中国側の史料と日本側の史料における「家系図」の合致にある。
『宋書』では、興の父を「済」、興の死後に立った弟を「武」としている。一方で『日本書紀』などでは、安康天皇の父を允恭天皇(「済」に比定)、安康天皇の弟を雄略天皇(「武」に比定)としており、この父・兄・弟という継承関係が見事に一致する。ただし、安康天皇の在位期間は記紀の記述では非常に短く、皇位継承をめぐる内乱の中で、幼少の眉輪王によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げている。興の遣使記録が462年の1度しか見られない背景には、こうした国内政治の不安定さや、短命に終わった治世が関係していると考えられている。
東アジア情勢と「興」の役割
5世紀後半の東アジアは、朝鮮半島において高句麗が南下政策を強め、百済や新羅、そして加羅(任那)諸国に強い圧迫を加えていた時期にあたる。倭国はこれに対抗し、朝鮮半島南部における権益と軍事的な影響力を確保するために、中国南朝の権威(冊封体制)を必要としていた。
「興」の外交は、高句麗の脅威に対抗しつつ、百済や新羅に対する自国の優位性を宋に認めさせるための継続的な努力の一環であった。興の死後、この外交方針は弟の「武」(雄略天皇)へと引き継がれ、478年の有名な「倭王武の上表文」における、高句麗批判とさらなる官爵要求へと発展していくことになる。興の時代は、倭国が東アジアの激動の中で生き残りをかけ、独自の主導権を確保しようとした過渡期にあたるのである。