済 (せい)
【概説】
5世紀中頃に中国南朝の宋に遣使した「倭の五王」の3番目の王。
記紀(『古事記』『日本書紀』)における第19代允恭天皇に比定される説が極めて有力である。
宋から「安東大将軍」などの高い官爵を獲得し、大和政権の国内外における政治的地位の向上に努めた。
『宋書』に記録された「済」の朝貢と官爵
中国の史書『宋書』倭国伝によると、倭王「済」は443年(元嘉20年)に宋へ使節を送って朝貢を行い、前代の王である「珍」の官爵(安東将軍 倭国王)を継承することを認められた。さらに、451年(元嘉28年)には宋の文帝より「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の軍事号を加えられ、さらに「安東大将軍」へと昇進した。これらの国際的な称号の獲得は、倭王が朝鮮半島南部における自国の政治的・軍事的な優位性を中国王朝に公認させるための高度な外交交渉の結果であった。
允恭天皇への比定と系譜上の整合性
「済」は、記紀に登場する允恭天皇(いんぎょうてんのう)に比定されるのが通説である。『宋書』には、済が没した後にその子である「興」(安康天皇に比定)が立ち、さらに興の死後にその弟である「武」(雄略天皇に比定)が即位したと記されている。この「父・兄・弟」という王位継承の系譜は、記紀における允恭・安康・雄略の系譜関係と完全に一致しており、倭の五王の比定において最も確実性が高い部分とされている。允恭天皇の治世は、国内において盟神探湯(くかたち)によって乱れた氏姓を正すなど、氏姓制度の基礎を構築して王権の組織化を進めた時期にあたり、こうした国内の権力集中が活発な対外外交を支えていたと考えられている。
5世紀の東アジア情勢と遣使の歴史的意義
済が遣使を行った5世紀半ばの東アジアは、高句麗の南下政策によって朝鮮半島の緊張が著しく高まっていた。倭国は、鉄資源の確保や半島における地盤維持のため、朝鮮半島南部(任那・加羅地域など)への政治的介入を継続していたが、軍事的な優勢を得るためには中国南朝の後ろ盾が必要不可欠であった。済が獲得した軍事号の中に「百済」が含まれていないことは、百済を独自に重視する宋側の外交方針を示すものであり、倭国の要求がすべて通ったわけではなかった。しかし、中国皇帝から公認された王としての高い権威は、国内の有力豪族たちに対する大和政権(倭王家)の絶対的な優位性を誇示し、中央集権化を推し進める強力な推進力となった。